「捕囚と帰還の預言」 エレミヤ書25章1〜14節

      【ユダ王国】
○ヨシヤ王 (640〜609、621申命記)          
●ヨヤキム (609〜598)                (BC621〜586)
●ヨヤキン (3ヶ月、597年・第一次バビロンへ捕囚)      
●ゼデキヤ (597〜587・第二次バビロンへ捕囚)       
                                      
       
※バビロニア帝国によって滅ぼされる。(BC587)    
                                ※ヨヤキン(別名コニヤ、エコニヤ)
                                ※●主の目に悪とされることを行った
                                  ○主の目にかなうことを行った
                                 ※BC605年カルケミシの戦い 
                                (エジプト軍とバビロニア軍の戦い)

 ユダ王国が国を守るためにはどうしたか。@主にのみに頼るだけではなく、異教の神々を拝んだ、またA大国の傘下に入り、彼らの庇護を受けることをした、ある時はエジプトに、ある時はアッシリアに。しかし、預言者達は木や石や金属で作った空しい偶像や、鼻で息をしている者(人間)に頼るのを止めよ(イザヤ書2:22わたしは、彼の肩に、ダビデの家尾鍵を置く。彼が開けば、閉じる者はなく、彼が閉じれば、開く者はないであろう。)、天地の主に立ち帰り、主にのみに頼れ、と呼びかけた。

  ヨシヤ王の大18年、エレミヤが預言者となって5年目、621年のことであるが、エルサレム神殿の工事のさなか、律法の所(申命記)が発見された。ヨシヤ王はそれを読み、感動し、それに従って異教の神々を一掃した(申命記改革)。しかし、そのヨシヤ王も609年エジプトがアッシリアと戦う為に上ってきたとき、エジプト軍を迎え撃とうとして、エジプト王ネコによって殺された。ヨシヤ王の強い政治主導によって成された宗教改革であったが、王が死ぬと民は再び主の目に悪とされるを行うようになった。まさに民にとって律法は巻物に記されたものでって、心に記されたものではなかった。神は言葉だけでなく、御子イエス様において、わたしたちの全ての罪汚れを自らその身に負い、その肉を裂き血を流された。その地を持ってわたしたちの心に、魂に律法を記そうとされた。このことをエレミヤは預言したのである。(エレミヤ書31:33しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結び契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にをれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。)
 

 ヨシヤ王の死後、その子ヨアハズが23才で王となったが、父の信仰を継承しなかった。彼はたった3ヶ月王位にいただけで、エジプト王ネコによって捕らえられ、エジプトへ連れて行かれた。ネコはヨアハズ王の変わりにヨシヤの子ヨアキムを傀儡王とした。このヨアキム王も主の目に悪とされることを行った。(列王記下23:36〜23:723:36 エホヤキムは二十五歳で王となり、エルサレムで十一年間、王であった。彼の母の名はゼブダといい、ルマの出のペダヤの娘であった。23:37 彼は、その先祖たちがしたとおり、主の目の前に悪を行なった。24:1 エホヤキムの時代に、バビロンの王ネブカデネザルが攻め上って来た。エホヤキムは三年間彼のしもべとなったが、その後、再び彼に反逆した。24:2 そこで主は、カルデヤ人の略奪隊、アラムの略奪隊、モアブの略奪隊、アモン人の略奪隊を遣わしてエホヤキムを攻められた。ユダを攻めて、これを滅ぼすために彼らを遣わされた。主がそのしもべである預言者たちによって告げられたことばのとおりであった。24:3 ユダを主の前から除くということは、実に主の命令によることであって、それは、マナセが犯したすべての罪のためであり、24:4 また、マナセが流した罪のない者の血のためであった。マナセはエルサレムを罪のない者の血で満たした。そのため主はその罪を赦そうとはされなかった。24:5 エホヤキムのその他の業績、彼の行なったすべての事、それはユダの王たちの年代記の書にしるされているではないか。24:6 エホヤキムは彼の先祖たちとともに眠り、その子エホヤキンが代わって王となった。24:7 エジプトの王は自分の国から再び出て来ることがなかった。バビロンの王が、エジプト川からユーフラテス川に至るまで、エジプトの王に属していた全領土を占領していたからである。 )

 25:1 そのヨアキム王の第4年(605年カルケミシの戦いの年、バビロニアのネブカドレツアルが勝利した年にエレミヤに臨んだ主の言葉が記されている。
 25:3 エレミヤの預言の成果は「ゼロ」だった。23年の間、だれも主の言葉を聞かなかった。エレミヤだけでなく、これまでも多くの預言者を遣わしてきたのに、、民は聞こうとしなかった。※マタイ23:29〜34よく言っておく。これらのことの報いは、みな今の時代に及ぶであろう。23:37ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。23:38見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。23:39わたしは言っておく、『主の御名によってきたる者に、祝福あれ』とおまえたちが言う時までは、今後ふたたび、わたしに会うことはないであろう」。
24:1イエスが宮から出て行こうとしておられると、弟子たちは近寄ってきて、宮の建物にイエスの注意を促した。24:2そこでイエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたは、これらすべてのものを見ないか。よく言っておく。その石一つでもくずされずに、そこに他の石の上に残ることもなくなるであろう」。24:3またオリブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとにきて言った、「どうぞお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」。24:4そこでイエスは答えて言われた、「人に惑わされないように気をつけなさい。24:5多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。24:6また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。24:7民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。
 
 25:5 預言者達「(主に)立ち帰って、悪の道と悪事を捨てよ。そうすれば祝福を得ることが出来る。」何年も、何世代も、倦むことなく神は預言者を通して語り続けてきた。
 25:7 しかし、せっかくヨシヤ王が改革したのに、その子ヨヤキムは再び偶像を取り入れた。「あたなたたちはわたしに従わなかった。偶像を作り、私を怒らせ、災いを招いた。」と主は言われる。

28:8〜11それゆえに「わたしの僕」バビロンの王ネブカドレツアルを裁き手として遣わす。ネブカドレツアルは神がそうしているとの意識はない。今世界を支配し、動かせているのは神です。大国の王も「我が僕」と呼ぶ。全ては神の手にある。これはエレミヤの時代だけではない。いつのの時代においてもそうである。現代もそうである。(25:8それゆえ、万軍の主はこう仰せられる。「あなたがたがわたしのことばに聞き従わなかったために、25:9 見よ、わたしは北のすべての種族を呼び寄せる。――主の御告げ。――すなわち、わたしのしもべバビロンの王ネブカデレザルを呼び寄せて、この国と、その住民と、その回りのすべての国々とを攻めさせ、これを聖絶して、恐怖とし、あざけりとし、永遠の廃墟とする。25:10 わたしは彼らの楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声、ひき臼の音と、ともしびの光を消し去る。25:11 この国は全部、廃墟となって荒れ果て、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える。)

 ユダの地は廃墟となり、喜びの声、祝いの声、花婿、花嫁の声、つまり婚礼も小麦を粉にする挽き臼のゴリゴリという生活の音も無くなる。
 この時(ヨヤキム王の第4年)から7年後597年にバビロニア軍(605年カルケミシの戦いでエジプト軍に勝利した)がエルサレムを攻め、第一年目の捕囚が起こった。その時、エルサレムの貴族や祭司、兵士、職人たち、主だった人々一万人が捕囚となってバビロンに連れ去られた(列王記下24;:14壺、十能、芯切り鋏、柄杓など、祭儀用の青銅の器をことごとく奪い取った。)。続いて11年後五八六年にも第二回目捕囚があり、エルサレム神殿は徹底的に破壊され、ユダの多くの人が連れ去られ、残された者は身分の低い農人だけだった(25:12この地の貧しい民の一部は、親衛隊の長によってぶどう畑耕地にそのまま残された。)

 「連れて行かれた人々は70年の間バビロンの王に仕える」
 その後、バビロニア帝国がペルシャのキュロス(クロス)によって滅ぼされ、解放令が出されるまで連れて行かれた人々は帰れなかった。キュロス王は全ての捕囚の民に解放令を出した。解放令が出たのが538年後ということになる。エレミヤの預言より10年から20年早かった。バビロンに連れて行かれた人々が心から罪を悔い改めたからであろうか。

 25:13 36章と45章に、このエレミヤ記はエレミヤの口述に従って、弟子であったネリヤの子バルクによて巻物に書き記された、とある。

  バビロン捕囚の意義
 神は何故このような悲惨な、むごいことを御自分が選ばれた民にされたのか。その前に、預言者を繰り返し遣わし、立ち帰れ、偶像をのぞき、神にのみ仕え、神の言葉に聞き従え、そうすれば祝福を得る。もしそうしないならば滅びを得る、と告げた。しかし、彼らはそれみ耳を傾けず、異教の神々を取り除くことをしなかった。もしそのまま放っておくならば、まずます悪の道に走り、救いようが無くなる。神は命を救うために大手術をした。不純物を取り除いて純金にするために坩堝に入れるべく、大きな試練を与えられた。彼らは奴隷として異境の地に連れて行かれ、屈辱的な生活を強いられた。そこ初めて、自分たちの過ちに気づいた。預言者が語ってくれていたことを思い起こした。彼らは涙を流して悔い改めた。彼らは神にのみ心を向けた。心を尽くして、思いを尽くして神を愛そうとした。旧約聖書の編纂にも着手した。そしてついに期間の時、快方の時を得、喜び勇んで帰り、神殿再建のために力を尽くしたのであった。
 わたしたちは苦難に遭わなければ目覚めないことがある。
 詩篇118編71節 「卑しめられたのは苦しみにあったことは)わたしのために良いことでした。わたしはあたなの掟を学ぶようになりました。」