「平安の原点」 マタイによる福音書11章2〜14節

考え思う全ての人間は、常に不安との戦いの中で生活をしてきました。個人においては、健康の面で、生活の面で。それを支える為の就労上の諸問題の中で。
 民族間や国家間になれば更に深刻な「生存と滅亡」等の問題を孥みます。この様な中で、助け合い、滅ぼし滅ぼされての歩みが、人間の歴史であり、今日その「悲しい現実」が地球上の各地で遂行されています。
 この様な人間の悲しみに終止符を付ける生き方を示す為に、神の『人間への語り掛けの言葉』として来臨された、イエス様の最初の働きの言葉は、
 『時は満ち、神の国は近付いた、悔い改めて福音を信じなさい』でした。『神の国』こそ、皆が他者を理解し思いやり慰め励まし、助け支え合い、平和に暮らせる世界(創世記1章31節)の預言です。(1:31 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。)
 この「神の国の建設」を人間に委ねられた神は、自我と自己中心で時益追求主義の人間を「赦し祝福する」為に、イエス様は全ての人間の「罪の罰」を十字架で贖って下さいます。ここに福音が有ります。
 この神様の『愛の見守り』を確信して歩む時、人は痛みや問題を抱える中にあっても、心は平安に満たされるものです。

 イエス様の働きの「準備をする」為に、誕生した「バプテスマのヨハネ」は、時の王ヘロデの私生活に関して厳しい評価を下した故に捕らえられ、獄に閉じこめられていたが、彼の弟子達は自由に彼の処に出入りできた。
 獄中のヨハネが、弟子達に託した、主エイスへの質問は、
『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、他の方を待たなければなりませんか?』(マタイ11:3 尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」)。主エイスのお答えは、
 「帰って、見聞きしている事をヨハネに伝えなさい。『目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、来病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死人は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。』私に躓かない人は幸いである。」

*この、バプテスマのヨハネの質問は、どのように受け止めるべきか?。
主エイスの、ヨハネへの評価は(マタイ福音書11章14節『あなた方が認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである』。)
{そして、もしあなた方が受け入れることを望めば、この人こそは、来るべきエリヤなのである。=口語訳}。
 イエス様の「B・ヨハネ」への評価を受け入れるならば、彼のイエス様への質問状は深い意味を持ちます。
 B.ヨハネがヘロデ王に捕らえられる以前、彼に従っていた弟子の内の二人は、彼がイエス様を「見よ、神の小羊」と紹介した時、イエス様に従った!と、ヨハネによる福音書1章35.36節は記しています。(ヨハネによる福音書1:35 その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。1:36 そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。1:37 二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。)
 *(ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人の内の一人は、シモン、ペテロの兄弟アンデレであった。ヨハネ1:40
この様に、B・ヨハネは救い主の前に道を創る仕事をしています。ここに立って、彼の主エイスへの質問状は、捕らわれていても尚自分に従う弟子達を、直接イエス様に出会う機会を創り、神が与えられた職務を忠実に行ったもの、と理解します。

 受け入れる(信じる)かどうかは、個人の決断の問題です。主イエスは、私に躓かない人は幸いである!と言われます。
 イエス様の贖いは「信じる・信じない」に関わらず、全ての人間の為に用意された神様による『救いの福音』なのです。
 そして、信じる人たちがその福音の『祝福の平安』に預かることでしょう。
 『平安』は、神の国に在る特質です。イエス様は、公生涯の最後に、全ての人間の「平和・藝案に満ちた生活」即ち、神の国を創る為の必要条件を弟子達への実地訓練で教えられました。

 『剣をさやに納めなさい、剣を取る者は皆、剣で滅びる』!です。
 平和な世界は、剣すなわち「力や権力」で自己主張することでは創れない、との教えです。(残念ですが、キリスト教の歴史は剣を用いての国や社会創りをした歴史ですから、イエス様の「神の国創りでの最も重要な部分」の教えを否定した歴史ではなかったでしょうか。)
 現在の世界の殆どの国が、剣(力=武力)を用いて平和な世界を創ろうとしていますから、絶対に平和な世界は創れないはずです。
 しかし、多くの隣国との関係では「力(武力)なし」では、自国の権利や自由な生活を守るのが大変難しい「現実の矛盾」の中に私たちの日常が置かれています。
 それでも、私達は次世代を担う者(子供達)に、剣を用いない『愛と赦しによる真の平和な世界』(平安に満ちた神の国)創りの責任を、神様から特別な『霊』を与えられ、その仕事を委ねられている事を伝え続けたい。