「気を落とさず絶えず祈り続けよ」 ルカによる福音書18章1〜8節

 18:1のイエス様の言葉は、その前の17:20以下の言葉が背景となっています。弟子たちはこれからどうなるのだろうかと、気を落とし、不安にもなっていたのであろう。そこで、18:1の言葉を弟子たちに言われた。神は日々祈り、神に助けを求める者を必ず守り、正しい裁きをして下さる。18:8につながる。
18:1 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。
18:2 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。
18:3 ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。
18:4 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。
18:5 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」
18:6 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。
18:7 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。
18:8 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」


 「祈る」ことの大切さはよくいわれているところであるが、これがなかなか難しい。「祈り」は人間の呼吸のようなものである、とも言われる。私たちは食べ物を食べ、呼吸をし、そして運動をする。もし、健康な体ならしっかり食べて、呼吸も力強く、規則正しく、運動も良くする。健康な体ならこれらは何も難しいことではなく、問題なく自然に行われる。しかし、いったん病気になると、食べ物も食べたくなくなり、呼吸も弱く、ゼイゼイし、運動もしなくなる。この3つは互いに深く関連している。
 信仰もそれにたとえられる。食べ物は神のみ言葉、呼吸は祈り、運動は奉仕、愛の実践です。この三つも互いに密接に関連している。

 ここでイエス様がどのようなとき祈られたかを少し見てみましょう。
◎マルコ1:35 色々な病気にかかっている大勢の人たちを癒し、悪霊につかれた者の悪霊を追い出した。次に、朝早くまだ暗い内に、イエスは起きて、人里離れた所に出ていき、そこで祈っておられた。(マルコ1:35 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。)
◎マルコ6:46 5つのパンと2匹の魚で5千人を養った後も、そうでした。イエス様は強いて弟子たちを向こう岸に先に渡らせ、ご自分は祈るために山に登られた。(マルコ6:46 群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。)
◎ルカ5:16 重い皮膚病の人がイエス様の所に来てひれ伏し「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがお出来になります。」イエスが手をさしのべてその人にふれ「よろしい。清くなれ。」たちまち重い皮膚病は去った。イエスは人里離れたところに退いて祈っておられた。(ルカ5:16 だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。)
◎ルカ6:12 イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から12人を選んで使徒と名付けられた。(弟子を選ぶとき夜を徹して祈られた)(ルカ6:13 朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。)
◎ルカ9:28 (山上の変貌)イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられる内に、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。モーセとエリヤが顕れ、エルサレムで遂げようとしておられる最後について話した。(十字架の死につて話された)(ルカ9:28 この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。)
 これらの所には何を祈られたかは記されていませんが、一日の働きを終えた後の夕方や朝方などです。場所は人里離れた所や山です。病や悪霊にとらわれた人を癒し、罪に苦しむ人や貧しい人に福音を告げ知らされた時です。あるいは重大なことを決める時です。それは、霊的な激しい戦いであり、疲れられた。病める人、悪霊につかれた人、罪の重荷にあえいでいる人と一日中接していたら、大変な霊的なエネルギーを消耗された。一つにはそれらのことを父に報告したのかもしれない、子供が一日の出来事を父に話すように、一人寂しいところにいって祈られたのでしょう。それによって新たな力を受けられたのでしょう。
 祈られたことのもう一つは、これから向かう十字架の苦難のことであり、また、その救いの福音を宣へ伝える弟子たちの(信仰の訓練の)ことであったであろう。つまり、イエス様が祈られたのは果たすべき使命についてであり、自分が為すべきこと、これでいいのだろうか、など様々なことを父に話し、御心を問うていたのであろう。まことに密接な父とこの関係でありました。
 親子に置いて、何でも話せる、重要な決断についてもじっくりと話が出来る、相談が出来る、という関係は実に良い親子関係であると言えるでしょう。しかし、現実はそういう理想的な関係は多くはない。親は感情にまかせて怒ったり、口うるさいことばかり言う。子供は話さなくなる。
 しかし、これが神と私たちとなると、私たちが話さなくなる、祈らなくなる、ということは、神の側に問題があるのだろうか。
 私たちが祈らないときというのは聖書の御言葉にふれないとき。つまり、食べ物を食べないでやせ細っていくようなもので、呼吸が弱くなっている状態です。3つが悪循環してしまう。それでは祈ることの大切さや必要性を感じなくなる。

 イエス様は気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちに一つのたとえ話しをされました。
 やもめ・・・社会的に最も弱い立場の人。
 裁判官・・・お金や権力に左右されないで、公平な立場で裁きをする人。
 律法に(エジプト記23:6)「あなたは訴訟において乏しい人の判決をまげてはならない。・・・あなたは賄賂を取ってはならない。」
 申命記17:8.9「あなたの町で、流血、もめ事、傷害などの訴えを裁くのが極めて難しいならば、直ちにあなたの神、主が選ばれる場所に上り、レビ人である祭司およびその時、任に着いている裁判人のもとに行って尋ねなさい。彼らが判決を告げるであろう。・・・彼らは主に立てられている」
 ところが、彼女は運悪く、その町の裁判官は神を恐れず、人を人と思わない、高慢な、弱い立場の人を変えるみるということからはほど遠い裁判官であった。
 しかし、やもめは諦めなかった。必死に食い下がった。「相手を裁いて、私を守って下さい。」と。裁判官に「あの女はうるさくてかなわないから、あの女のために裁判をしてやろう。そうしないと、これからもひっきりなしに来て私をさんざんな目に遭わせるに違いない」と言わせた。
 まして、天の父は昼も夜も叫び求める愛する子のために、その願い、求めを聞かずに放って置くだろうか。決して放っておくことはない。必ず聞いて下さる。

 私たちは御子の命に寄って救い出された、神の愛する大切な子供である。イエス様が絶えず祈れ、必ず聞き届ける、と言って下さる言葉を信じてそうしましょう。
18:8 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」