「神様はどのようなお方」 創世記1章1節
                ヨハネによる福音書1章14節


 一般に、神様のイメージはどんなものか。
 十人十色、私たちは様々なイメージを持っている。私たちの限られた頭で捕らえる神はほんの一部を捕らえるだけでしょう。しかも、それがかなり自分勝手なものであるかもしれません。そのように一部しか見えない有限の人間が、無限の神様の全体を完全に捉え、言い表す事は難しい。しかし、有り難いことに神様の方から、御自分はこういう者だと現して下さっています。それが聖書です。これを読むなら神様がどういう方が知ることが出来ます。では神はどのような方か、その真実な姿をみていきましょう。まず、神は万物の創造者であります。

A 万物の創造者
 創世記1:1「初めに、神は天と地を創造された。」
 世界とその中の生物、また宇宙は神が意志を持って計画的に造った。それはこの自然や宇宙を見れば、そこに神の御手の業を見ることが出来る。しかし、人間は目先のことしか見ようとしない。そんなことはどうでも良い。自分の家庭、自分の仕事、自分の国の利益、が第一。まことに自己中心的である。世界とその中の自然のことを高い視野から見ることが出来ない。
 だから人間は自然の秩序を無視し、自分たちの都合のよいように、乱開発をしているのです。温暖化、今まで無かったゲリラ豪雨、竜巻など自然のしっぺ返しです。
 世界の事物、事象(水、空気、雨、天気、気候、動植物・・・)は、当たり前のように存在しているが、それらはきわめて緻密で巧妙、かつ壮大な秩序と組織原理を持っている。たとえば、太陽や星の運行を見れば、その規則性には驚くべきものがある。あるいは、植物の花や
葉や枝などを見ると、信じ難い精巧さで造られている。
 このような精巧な世界と自然の仕組みは、調べれば調べるほど、精巧かつ精妙で、人間の思考力や技術を遙かに超えている。世界に、このような精巧な仕組みや、因果が存在するのは、「人知を超越した者」の設計が前提になければ、説明がつかない。すなわち、自然の世界は、その創造者である神の存在を明らかに証明している。
 ※1800年代初め、200年ほど前、(万有引力で有名なニュートンとも言われているが)ドイツの学者アタナシウス・キルヒャーの逸話です。
 キルヒャーは太陽暦の模型を上手な機械工に作らせた。その太陽暦模型は、惑星を表す球体が実物そっくりに連動しながら軌道上を回るように作られていた。ある日、一人の無神論者(神を信じない人)の友人が彼(キルヒャー)を訪ねた。友人はその模型を見るとすぐにそれを操作し、その動きの見事さに感嘆の声を上げた、「誰が作ったのかね?」。

B 正しい審判者
 子供の頃、「神は嘘をついたりする者に罰を当てる」「お天道様は見ているぞ」だから、嘘をついてはいけない、人の物を盗んではいけないと教えられていた。
 神は悪いことをする者に罰を与え、裁かれる方、とみていたのです。でも、現実の社会では嘘をつき、巧妙に人をだまして、お金儲けをする人が上手くやっている。正直者が馬鹿を見る、という言葉もあるように、正直なだけではこの世はやっていけない、毒には毒をもって立ち向かわない(とやっていけない)、という反面もあって、大人も歯切れが悪い。
 だから、勧善懲悪、「善を勧め、悪を懲らしめる」、水戸黄門、遠山の金さん、必殺仕掛け人、ネズミ小僧などの歯切れの良いドラマが人気がある。
 人間がする悪への裁きは果たして正しいものだろうか。自分は正しいと思ってやっても、複雑に利害が絡んだり、独りよがりであったり、復讐の応酬になって泥沼化し、恨みや悲しみが増すことになる。
 裁きをするより、愛の実践をせよ。裁きは神に委ねよ、と神は言われる。
ローマ12:19「愛する者たちよ、自分で復讐せず、神の怒りにまかせなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する。』と主は言われる。」

C 救済者
 誰でも幼子の時から悪を行う者はない。何故、悪を行うようになるのか。それは家庭の問題か。それとも社会の問題か。もし、愛に満ちた温かい家庭に育ったなら、その子は悪を行わない人間となるのだろうか。その補償はない。では社会が愛に満ちた温かい社会なら、そこにすむ人々は悪を行うことはないのだろうか。そのような社会が実現した歴史はない。
 私たちは皆、悪を捨て、善を行おうと思っても、それを実行し続ける力がない。
 では、悪の根源は何か。聖書は私たちの心が神から離れていることであると言っている。神に背を向けていることである。それを罪という。神を知っていようが、知らないでいようが、悪の根源は心の中にある罪である。罪は神に顔を向けないで、背を向けて生きていることである。
 では、心が神に向かって生きるためにはどうしたらよいのだろうか。まず、神の存在を知り、自らの罪を認めることが初めです。
 罪を悔い、神に心を向けて生きたいと心から願うことです。
 創造者なる神が、正しい裁きをされる神が、罪と悪の泥沼の中で苦しみもがく私たちに救いの御手を差しのべておられるのです。
 神は御自分の方から、私たちを救うために、私たちのところに、人間の姿を取って来て下さいました。それがイエス・キリストです。
ヨハネによる福音書1:14「言は肉となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父のひとい子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた」

 イエス様は私たちの罪を御自分が代わりに負って、その裁きの罰を受けるために、十字架について下さったのです。それだけではなく、三日目に死から復活され、私たちにも復活の命を与え、神の子として生きるようにするためでした。
 「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪をあがなういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのように私たちを愛されたのですから、私たちは互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うならば、神は私たちのうちにとどまってくださり、神の愛が私たちのうちに全うされているのです。」(ヨハネの手紙一4:10〜12)
 神は万物の創造者であり、審判者であり、そして愛に満ちた救済者でもあるのです。