『自分を愛するように・・・』(祝福される人生の秘訣を求めて)
                               ルカによる福音書10章25〜37節

 イエス様が行かれる処、何時も多くの群衆が付きまとった、と言われています。何故なら民衆の日常は律法(宗教の教え)を守ることを強いられ「生活のすみずみまで」、こと細かに規制されていて、宗教が重荷になっていたから、と言われています。
 イエス様は言われます、『疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私の処に来なさい、あなた方を休ませてあげよう』(マタイ11章28節)と、優しく、しかも律法学者のようではなく、権威ある者のように「神の愛」を語られたからです。
 当時の人々にとって『神』は厳しく『罰』を与えられる、恐ろしい存在者と教えられ、『神は愛である!』とは考えられない状況でした。
 安息日の戒めは特に厳しく、喜んで会堂に行くのではなく、義務として出席するのが常でした。
 安息日にはどんな仕事も禁じられ、医者も治る治療は禁じられていた。
** 安息日の律法(出エジプト記20章8〜11節、参照)
   主人と使用人(召使い、奴隷)の間では??。
** 出エジプト記23章12節は、安息日の目的を述べています。

 ルカ10章25〜37節で、イエス様は「人助けをするサマリヤ人」の譬えで、律法学者とそこに居る民衆に『祝福される生き方』を伝授されました。
 律法学者達の、イエス様を試そうとして難問で問いかけます。イエス様は、律法の専門家である彼ら自身に「律法の教え」を問い返されました。
 彼らの回答は、『十戒』を、神と人間との関係。人と人との関係の二つに分けて答えました。・・・それを実行することだ!との主の答えです。

 ※ 半殺しの状態とは・・・誰かが手をかし、手当をし、支援すれば「その人は助かり」、誰も関わらなければ「彼は死に至る」状況です。
    (現在でも、交通事故などでよくある状況です。)

 祭司とレビ人(神殿での儀式に携わり、そこでの働きをしている人)、律法学者と同様の立場にある人達で、当時、神様に一番近い人、神様から祝福されている人達と称されていました。

 この譬えで、イエス様は彼らが「何故助けなかった」かについては、何も説明しておられません。
 彼らが助けなかった理由は?。助けられなかった理由は?。

1.血を流して倒れている人を見ただけで恐ろしくなった。
2.近くの見えない処に強盗が隠れていると思えたから。
 これらは、誰もが持つ人間共通の恐怖であり、必要な手を伸ばせない理由かも知れません。

 祭司や律法学者達が共通の問題点は?。
レビ記や民数記の記述の中で、遺体に触れる汚れ等があります。
 律法学者はこれらを基にして、更に細やかな戒めを多く創り出して、「神を第一」にする者が、自分たちが創り出した戒め(律法)に縛られていて、民衆をそれに縛りつけて支配し、民衆のある人々を手なずけて配下にし、他者の律法破りを監視させ、彼らに賃金を渡していた。
 イエス様の行動の記述の中で「ユダヤ人達」と別記するのはその人達です
 「神を第一」とする指導者達へのイエス様の指導がマルコ7章1〜13節にもあります。(コルバン=神へ供え物)

 * サマリヤ人 (サマリヤ地方)
  ユダヤ人と同じ神様を信じていたが、ユダヤ人がバビロンに捕囚された時、多くの異民族が来て、娘達と結婚して共に生活をするようになった。
 捕囚から帰ったユダヤ人達は、自分達は捕囚で苦しい生活を強いられたのに、・・・ユダヤ人の「血を汚した」として、サマリヤ地方に住む者達を軽蔑し、彼らの町に行くことも、汚れが移るとして嫌がっていた。

 『自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい』との、イエス様の教えを心に留めて日常の生活をする時、その人達は神様の祝福に預かるでしょう。
 争い戦争の多い中で、真に平和な社会に成れるのは、この生き方しかないでしょう。力や剣では「真の平和」は創れないからです。

 思っても努力しても大変難しく、重荷の多い現実の生活の中では大変な事ですが、「あなたの悪しき事は全て私が引き受けて贖う」と言われるイエスに全てを委ねて、安らいで生きたいものです。