『神様の喜びに与(アズカ)る者』 ヨハネによる福音書 6章1〜15節

1.イエスさまの公の働きの第一声は、『神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい』!、でした。
 『神の国』とは、特定の場所ではなく、「地球そのもの」です。
 神は人間ご自身の霊(心)を与え、創造された地球の全てのもの、「自然とそこに住み生きる、植物や動物」を守り育てる管理者とされたのです。それ故に、『神の国』とは、
 “人が『他者の状況を理解して、赦し・慰め励まし・助け支え会い・持てる物を互いに分け合い、皆が喜び、感謝して平和に生活する社会』”
を意味します。
 その様な社会は、力(剣)によって支配するのではなく『愛の助け合い』により実現されるものなのです。
 『愛を基』とする人間生活の有り方を、創世記2章7節で、神が人に「ご自身の霊」を入れられた時“人は生きる者となった!”とあり、
*神の心(霊)で結ばれた人間は神に顔を向け聴いて生きる意味です。
  〜これは、人間の「親と子」の絆の基を示しています。〜

2.今、世界は大変悲しい状況下にあり、神の国の有り方からは掛け離れた状況です。(人間の歴史は「常にその様を歩み走っての今日」)で、現在は一歩間違えば「地球全体が破壊される」強力な火器(原水爆)を大(少)国が保存し更に製造し進化させようと財力を注いでいます。
 力(剣)によって、他者、即ち「他国、他民族、他信条者・他宗教者」との間に『自己第一』の思いを掲げるからです。
 イエス様の最後の実地訓練の中で、弟子の一人が「準備した剣」を振り回して、イエス様を捕縛しに近付いた「若者の右の耳」を切り落とした時、その若者の耳を元通りに癒しながら、宣言された言葉は、
   “剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる”でした。
    (マタイによる福音書26章52節)です。
 剣(武器や力=口にする言葉も、人の心を傷つける時があります。)では、皆が楽しく喜んで暮らせる、真の『平和な社会=神の国』は創れないのが、人間の歴史が教えている通りです。

3.イエス様が宣言された『神の国は近付いた』との預言は近未来への預言とも言えます。ペトロの手紙の預言の中に、『新しい世界』が始まるまえに古い世界は『火』で滅亡するとあります。
 人間はその刑罰の火(原水爆?)を自分達の手で造ってしまっています。しかし、預言は「人が悔い改めて、正しい道に歩む時」即だに解消されます。ペトロはその手紙の中で「主のもとでは、一日が千年のようで、千年は一日のようです!。」と伝えていますから、その時からまだ二日を過ぎただけです。心配ありません『神の国』は造れます。

 戦いに明け暮れる人間に対して、神からの預言。エゼキエル書18章32節
“私は、何人の死をも喜ばない。・・・・翻って生きよ!”とあり、又、
“主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤(スキ)とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家(神を信じる者達)よ、主の光の中を歩もう!。”とイザヤ書2章4節では告げられています。
 しかし、現実世界は、自分達の主義主張を通す為に、主義や宗教の違いや異民族、異国の人達を無差別に襲い、幼児や子供・女性など弱い立場の者達や国を襲い殺略しています。
 神の言葉として来臨されたイエス様の剣を納めなさい、剣を取る者は剣で滅びる!との教えこそ、新しい世界『神の国』の創造の基となるのです。

 結び.神の国の実現に協力し神の喜びに与った子供の行為があります。ヨハネによる福音書6章1〜15節、他参照(紀南幼稚園児も毎年参画)
* ユダヤの過ぎ越の祭りには他国に住んでいる多くのユダヤ教徒達も巡礼で参拝に集まります。これ等の人達も加え地元の男子や婦人や子供達(家族等)で、万を超す人達が、イエス様の行かれる処に集まり、イエスは、“彼らを迎えて神の国の事を語り聞かせ、治療を要する人達を癒された。“(ルカによる福音書9章10〜17節)神の国の内容は不明です。
 しかし、そこに居た子供は素直に「その内容に受け止め」でいます。
イエス様の、集まった人達を「満腹にして上げたい」とのお心を感じ、自分が持っている「大麦のパン五つと二匹の魚(干物)」を捧げます。
 *弟子は「こんなに大勢の人達では、何の役にも立たないでしょう。」、と告げます。大人は現実の状況に支配され、計算し(自分には)出来ないと、早々に結論を出しがちです。
*少年の行為を喜んで受け「それ」を増やされるイエス様を見て、多くの大人達も「自分の持てる物」を提供した、と十分に考えられます。」
 それ故に『平和な世界(神の国)の創造』は未来に生きる子ども達の手にかかっているのです。その様な子供の育ちを望み、育てたい!。
 見守りの中で、望みを持って、皆で力を合わせ最後まで頑張りたい。