「前のものに全身を向けて」 フェ利ピノ信徒への手紙 3章13.14節

 年末を迎えて、何時も感じることは時の過ぎ去ることの早さです。それは人生の過ぎ去ることの早さでもあります。昨年末から今年にかけて教会では多くの近しい関係者が天に召されました。
 昨年の12月12日に、木村恵子姉が天に召されました。64歳でした。乳ガンとの戦いを20年以上も続けながら、多くの人を支え励まして来られました。私たちを紹介し、結婚のきっかけを作ってくれらのも彼女でした。妻の腹心の友でした。
 
 同じく12月31日、坂本幹彦氏が召されました。67歳でした。ご両親が田辺教会の教会員で、お父さんはギデオン協会でも活動された方です。幹彦さんは長男として歯科医院を継ぎ、央(ナカバ)さんをはじめ4人の子供さんを育てられました。教会には出席されていませんでしたが、子供さん4人を紀南幼稚園に入園させ、最後、枕元で讃美歌461番「主我を愛す」を私たちと共に口ずさみ、召されました。
 
 そして今年5月31日、時岡みゑ姉が召されました。72歳でした。野の草花や猫など生き物をこよなく愛された方でした。また、東南アジアの、学校に行けない子ども達の里親になったり、障害者が口や足で絵を描いて作ったはがきや便せん、カレンダーなど毎年沢山購入して、彼らを支えておられました。そして、病気の方々への励ましの手紙を、手紙魔といわれるほどこまめに書かれた方でした。

 7月30日、古い信者さんでした藤畑美千代姉が天に召されました。お子さんが紀南幼稚園に来られたことをきっかけに教会員となられましたが、晩年は教会に来ることはありませんでした。息子さんに教会で葬式をとの遺言で教会で葬儀をしました。

 10月11日、榎本節子姉105歳で召されました。まれに見る長寿でした。茂子さん、幸子さんのお母さんであり、娘二人の影響で70歳を越えてバプテスマを受けられた。お見舞いに行くと、毎回あふれるほどの笑顔で迎えて下さいました。教会が懐かしい、行きたいといつも行っておられました。

 詩編の作者は人の生涯は次のように述べています。詩編90編10節
「人生の年月は70年ほどのものです。健やかな人が80年を数えても、得るところは労苦と災いに過ぎません。瞬く間に時は過ぎ、私たちは飛び去ります。」
 確かに、私たちの人生は楽しいことより辛いこと、嬉しいことより、悲しいことのほうが多いように思います。労苦と災いが多く瞬く間に過ぎ去る人生のむなしさを味わうのです。
 ことし1年を振り返って、私たちも同じようなことを味わったかもしれません。怒りに満たされたり、無力さを痛感したりしたことが何度もあったでしょう。
 詩編の作者は続いてこう叫びます。(13節)
 「主よ、帰ってきて下さい。いつまで捨て置かれるのですか。あなたの僕らを力づけて下さい。朝にあなたの慈しみに満ち足らせ生涯、喜び祝わせて下さい」
 そして、最後に彼はこう祈って終わっています。(17節)
  「わたしたちの神、主の喜びが、わたしたちの上にありますように。わたしたちの手の働きを、わたしたちのために確かなものとし、わたしたちの手の働きを、どうか確かなものにして下さい。」
 わたしたちの働きがむなしいもので終わらないように、実り多いものにして下さい。喜びと共に感謝を献げることが出来るようにして下さい、と。

 パウロは、フィリピの信徒への手紙3章1節で
03:01では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。
 悲しい出来事、様々な苦難も、それ自体は、辛く苦しいことだが、主において、それがどのようにしてか分からないが、必ず益になるときが来る。だから喜びなさい。得るところは大きい。
 ローマの信徒への手紙8章28節
「08:28神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」

 だから、パウロは主にあって喜びなさい、それが安全なことである、というのです。苦難や試練に対して、不平不満や悲しいくらい顔をして毎日を過ごすと、まずます暗く闇はましていきます。
 苦しくても主は必ず助けて下さる。この苦しみを益にして、喜びに変えてくださる主よ、早く、助けに来て下さい、と祈るのです。

 フィリピの信徒手紙
03:13兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、
03:14神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。

 ここに、後ろのものを忘れ、前のものに向かって全身を向けて、とあります。
 パウロはオリンピアの競技の例をもって説明している。つまり、競走者が走り終えた過去のことを忘れて、前方に向かって身を伸ばして突進するように、パウロは過去のこと、つまり肉の誇り、自己の過失、罪、クリスチャンを迫害したことなど全てを振り切って、くよくよしたり、意気消沈したりしないで、前方に向かって、主に喜ばれるように、天を目指して突進しているのです。それは十字架で罪の赦しを与えて下さったキリストに捕らえられているからでした。

 私たちはこの年末を迎えて、今年も恵みと共に、色々と苦しいことも多かった。不信仰になったり、投げ出したくなったこともあった。それでも神は忍耐深く導き続けて下さった。私たちはキリストの故に決して見捨てられることはない。そればかりか、どのようにしてか分からないが全て益にして下さるのです。だから、後ろのこと、過去のことを、ちゃんとして下さる神様に任せて、私たちは全身を前に向けて、主にあって喜んで歩み出そうではありませんか。