『先は見えなくても』 ローマの信徒への手紙 8章31.32節

 先週から2歳9ヶ月になるギャングが来ています。母親のお産で、親元から離れて、初めて私たち祖父母の元に一人で来ています。孫は大変恐がりです。家では殆どテレビを見せていないので、私が相撲を見ていると、初めて見る大きな相撲取りを怖がります、ハッケヨイ残った、と相撲のまねをして、大丈夫、怖くないよ、と言ってやりました。まだこの世に2年と9ヶ月しかいないのですから、見るもの聞くもの多くが初めての事ばかり、何のことやら分からないことばかりでしょう。不安と恐れがあるのは当然です。
 これは幼い子どもだけでなく、私たち大人も、訳が分からないこと、どうなるか分からないことが色々あると、先が見えない暗闇に不安や恐怖を覚えるものです。つまりある人にとっては生活のこと、将来のこと、またある人にとっては健康のこと(ガン、脳梗塞など様々な病気)、一方、宇宙人(侵略)、地震、自然の猛威に、そして死と死後のこと(裁き、地獄)に恐怖を覚える。多くのことが解明されてきているが、分からないことが多い。いや、分かっていることの方が一部だけかもしれない。


 「神を味方にする」
 森羅万象のことは、まだまだ分からないことが多い。死と死後のことについても同様である。恐怖心は決して悪いものではなく、人間にとって大切な身を守ろうとする心理である。何も恐れない、神をも恐れないという人がいるが、愚かな人である。人間は無限の宇宙や大自然の猛威、そして自分の中の罪との葛藤をとうして、まことに弱い小さな存在であることを自覚するもの。そういったことから、全知全能の神を知り、信じ、味方にすることが出来る、神と友にいることが出来る特別な存在なのである。

ローマの信徒への手紙 8:31
8:31では、これからのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。

 わたしたちにとって神という存在は目に見えないので、居るか居ないのか良く分からない。「罰(バチ)を当てる神」くらいにしか思っていない。しかし、神はわたしたち人間を造り、命を注ぎ、あなたもわたしも深く深く愛しておられる方です。そのことを命がけで知らせようとして下さっている。
@聖書によって Aイエス・キリストによって B教会によって、 これにらによって
 これらによって私たちは誰でも神はどのようなお方かを知ることが出来る。知って信じることが出来る。信じて味方にすることが出来る。
 この全知全能の神を味方にすることが出来るなら、どんなに先が見えない暗闇でも、また未経験の死と死後の世界も恐怖ではなくなる。
 なぜなら、ローマ8:32にはこう記している。
「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」
 私たちは互いに愛し合い、許し合い、助け合うことを求めつつ、それ以上に、憎み、争い、自己中心的、自分の罪を罪とも思わない者です。人を傷つけ、自分も傷つくものです。争いに満ち、自滅し、滅んでいこうとしている、なんと、愚かな、悲しい者でしょうか。そんな愚かな私たちを神は憐れみ、私たち全てのために、御子イエス・キリストをさえ惜しまずに死に渡された方です。これがイエス様の十字架の死です。イエス様の十字架は私たちのすべての罪を赦し、新しい命に生かす犠牲の死でした。神の御子の命を代価にするほどわたしたちの罪は重いのです。これを知るとき、神を信じ、神が私の味方であることを知り、どんなものをも恐れなくてよい、と心を強くするのです。丁度、恐がりの孫がおじいちゃんの手をしっかりと握って怖がらないように。
ヨシュア記1:9
「わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あながたどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」

 ただこの世にあってはお父さんやおじいちゃんのように、神さまは目に見える方ではないので、ただ神の約束の言葉を信じて行くのみです。しかし、私たちはおぼろげでも、神さまの方はわたしたちの全てを知り、はっきりと見ていて、助けて下さるのです。
コリントの信徒への手紙一 13:12
「わたしたちは、今は、鏡におぼろげに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせてみることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきりとしられているようにはっきり知るようになる。」

 先が見えない世界
 人間にとって、最も訳が分からない、先が見えない世界は死と死後の世界でしょう。「死ぬ」ということはどういうことなのか、この訳の分からない不安で恐怖から解放されたい、これを知りたい、知って克服したいと努めてきた。 
 死の先に何があるのか・・・聖書のみ言葉が示している限りで、どんな来世を期待できるのだろうか。不思議なことに聖書には死後の世界についての描写はどれも象徴的で、具体的なイメージを造るには不十分です。
 人の死と死後の世界
@人の一生は額に汗して苦悩してパンを得る。そして土に返る。(創世記3:19)
A人生はたかが70年、80年、ため息のように過ぎ去る。得るところは苦労と災いに過ぎない。野の草や花のようだ。(詩編90:10)
B主の言葉はとこしえに残る。
Cわたしを信じる者は死んでも生きる。(ヨハネ11:24)
Dあなたは今日、わたしと一緒に楽園パラダイスにいる。(ルカ23:43)
E天には朽ちることのない永遠の幕屋が備えてある。(コリント二5:1)
F神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙もことどとくぬぐい取って下さる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも苦労もない。(黙示録21:2.3)
G宝石のように輝く天の玉座の前で神を讃美し、礼拝している。(4:3・6:9〜)

 体験できない死と死後の世界を十分に知って安心できるか、恐怖心が無くなるか、どうもそうとは言えない。幼子が経験したことのない相撲取りや、いかつい大人や暗闇を、言葉で説明して、ある程度知っても、恐怖心は無くならないのと同じように、私たちも死や死後の世界を知っても恐怖心は無くならない。ただ、本当に信頼できる神が一緒にいてくれることで、恐怖心は取り除かれるのである。そして、先は見えなくても安心して、希望を持って前に進んで行けるのである。