「一致と分裂」 使徒言行録4章32〜5章11節

 初代教会の特徴は皆が一つ心になって持ち物を共有し、共同生活をなし、共に神を礼拝していたことです。一つ心となる、ということは実際のところ、家族や、夫婦であっても難しいことである。
 人間は本来、平等よりも、他人より少しでも多くのものを持ちたい、得したい、楽をしたい、人よりも良い生活をしたい、というエゴイズム、自己中心の考えを持っている。
 このエゴイズムというものは、やっかいな代物であって、制度や法律で規制したり、権力で押さえつければ押さえつけるほど、たちが悪く陰湿に内向し、巧みに嘘をついたり、隠したり、欺いたりする。
 これを取り除くには外からの厳しい法律による罰則でも、また自分の力による内部改革でもどうにもならない。
 ただ愛によって、キリストによるその神の愛を受けることによって、エゴイズムを解決することが出来る。その上で聖霊の助けと導きによって、自主的に持ち物を出し、助け合う心を生み出すのである。

@一致はどこから
04:32信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。
04:33使徒たちは、大いなる力をもって
主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。
04:34信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、
04:35使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。
04:36たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、
04:37持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。
 4:32 少なくとも一万人以上の人々が一つ思い、一つ心となってあたかも一つの家族のように、すべての持ち物を共有し、仲良く分け合って、誰一人不足する者はなかった。
 このようにイエス様を信じた者たちは誰からも強制されることなく、自主的に、心から進んで持ち物を持ち寄ったのであった。この初代教会のような姿は私達の社会の中で存在するものがあるだろうか。
 ※例えば、夫婦の場合はどうであろうか。最も小さい基本的な社会の単位だが、夫婦において完全な共産社会となっているだろうか。心も思いも一つにし、すべての持ち物を共有していると言えるだろうか。貯金通帳はどうなっているのか。妻はへそくりをして、ちゃっかり、いざというときに備えているのではないだろうか。
 夫のものは妻のもの、妻のものは夫のもの。とちらもこれは自分のものと言わない。すべてを共有している。それは、義務的でも強制されてでもなく、見栄からでも、恐れからでもない。お互いを信頼し、また愛する愛からである時、すべてを共有していると言える

 初代教会に於いて、元々赤の他人の集まりに於いて、このような奇跡的な麗しい共産生活が実現した、何故か。
 初代教会にそれが起こったのは、イエスの名によって救いを受けたが故でした。イエス様を十字架につけた張本人の祭司や、議員たち、十字架につけよと叫んだ民衆もまた、神は自分たちをも赦すために、御子の命さえも、惜しみなく差し出して下さった。それほど、わたしを価値があると言って下さる。
 使徒からバルナバ(慰めの子)もまた、使徒たちの語る福音、イエスの十字架と復活を信じて感動と感謝から自分から進んでそうした。

A分裂の芽を摘む
05:01ところが、アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、
05:02妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた。
05:03すると、ペトロは言った。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。
05:04売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
05:05この言葉を聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。そのことを耳にした人々は皆、非常に恐れた。
05:06若者たちが立ち上がって死体を包み、運び出して葬った。
05:07それから三時間ほどたって、アナニアの妻がこの出来事を知らずに入って来た。
05:08ペトロは彼女に話しかけた。「あなたたちは、あの土地をこれこれの値段で売ったのか。言いなさい。」彼女は、「はい、その値段です」と言った。
05:09ペトロは言った。「二人で示し合わせて、主の霊を試すとは、何としたことか。見なさい。あなたの夫を葬りに行った人たちが、もう入り口まで来ている。今度はあなたを担ぎ出すだろう。」
05:10すると、彼女はたちまちペトロの足もとに倒れ、息が絶えた。青年たちは入って来て、彼女の死んでいるのを見ると、運び出し、夫のそばに葬った。
05:11教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた。

 この夫婦は嘘がばれた時に、謝罪していたらどうだったのであろうか。これはユダにも言えることであるが。
 この場合、嘘をつく、裏切るに至ったということは、とっさにしたことではなかった。それまでに計画的であった。神に対する信頼を欠いた行為であり、どん欲によって神の目を節穴同然と見なし、馬鹿にした行為であった。
※アカンの罪・・・旧約聖書ヨシュア記6.7章、P347、3.48

 これは神への罪に対する裁き、罰であったのであろうか。
 厳しすぎるのではないか。今でもそういったことはあるのに、何故、同じことが起こらないのか。
 
 この時、神は何故そこまでされたのだろうか。
 他の、後の人々への見せしめにされたのだろうか。 
 信仰者はその命を得た後も、失敗を繰り返し、罪を犯す者である。それを神はよくご存じである。神は、これから福音の苗が世界中にばらまかれるというときに、この一つの不従順な嘘によって「蟻の一穴」になることをいち早く察知し、それを打ち砕いた。

 アナニヤとサフィラは特別な人ではない。ユダもアカンもそうである。私達の姿を良く現している。この世の富に、どん欲に目がくらみ、サタンに心を奪われた人であった。
 私達はバルナバにもなれるし、アナニヤやサフィラにもなる。そのことを謙遜に自覚し、キリストによって与えられている神の愛から離れないようにしていきましょう。