「常に見守って下さる主」 詩編121編

【都に上る歌。】
121:01目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。
121:02わたしの助けは来る天地を造られた主のもとから。

121:03どうか、主があなたを助けて足がよろめかないようにしまどろむことなく見守ってくださるように。
121:04見よ、イスラエルを見守る方はまどろむことなく、眠ることもない。

121:05主はあなたを見守る方あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。
121:06昼、太陽はあなたを撃つことがなく夜、月もあなたを撃つことがない。

121:07主がすべての災いを遠ざけてあなたを見守りあなたの魂を見守ってくださるように。
121:08あなたの出で立つのも帰るのも主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。

 一昨年の旅路を終えようとするにあたり、今年最後の礼拝(53回目)を皆様と共に迎えることが出来たことを感謝したいと思います。
【巡礼の歌】
 121編の最初の所に「都に上る歌」とあります。120編から134編までの15編にこの表題がついています。これらは地方から礼拝のためにエルサレムの都に上って行く時に歌った巡礼の歌だと言われています。いよいよエルサレムが近くなったとき、エルサレム神殿があるシオンの山々を見上げて、掛け合いのような形で歌った歌です。
 122編4節を見ますと「そこに全ての部族、主の部族は上ってくる。主の御名に感謝をささげるのはイスラエルの定め。」とある。ここには各部族が主の御名に感謝を献げるためにエルサレム神殿に上って行ったことがわかります。徒歩で長い日数をかけてエルサレムまで行くわけですから、当然、いろんな危険が伴いまた、いろんな犠牲が伴います。しかしその中で、このイスラエルの民たちは聖地エルサレムを目指して、この歌を歌い、互いに励ましながら、進んで行ったのでしょう。何が彼らをそうさせたのか。彼らの生活は安息日、年に3回のエルサレム行きが生活の柱。神中心。

 私たちも遠くから近くから礼拝に集まってきます。そこには色々な犠牲が伴います。時間も費用もかかります。主への感謝を献げるためにしているのです。主は何よりもそれを喜んで下さり、祝福してくださるのです。
 私たちもまた、この世を旅する巡礼者です。ヘブライ人への手紙11章には、信仰によって歩んだアブラハムを例にとって、この世の故郷ではなく天の故郷を目指して、喜んで歩む巡礼者だと言っています。神は彼らの信仰を喜ばれた。祝福されたのです。

 121編にはその巡礼者たちを「見守る」という言葉が6回も出てきます。
@121:03どうか、主があなたを助けて足がよろめかないようにしまどろむことなく見守ってくださるように。
121:04見よ、イスラエルを見守る方はまどろむことなく、眠ることもない。


 親は子を見守る。幼い子や弱い子はひとときも目を離さないようにしっかりと見守る。イスラエルを見守る方は、様々な犠牲を払って、足をよろめかせながらも、礼拝を献げようと集まってくる巡礼者をまどろむことも、眠ることもなく、見守り続けて下さる。

A121:05主はあなたを見守る方あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。
121:06昼、太陽はあなたを撃つことがなく夜、月もあなたを撃つことがない。

 暑い真昼だけでなく、夜寝ている間も主は見守っていて下さる。安心して休みなさい。イエス様は十字架で最後の息を引き取るとき、「主よ、私の霊を御手にゆだねます」と言われた。それはおやすみなさい、との言葉であった。

 主は私たちが死ぬときも、死の先も、み守って下さるのですから、安心して主に委ねることが出来るのです。ですから、過ぎ去った年も、また新しい年も、安心して主に委ねましょう。

B121:07主がすべての災いを遠ざけてあなたを見守りあなたの魂を見守ってくださるように。
 災いを遠ざけて下さる。「そうでしょうか。神を信じる者も信じない者も同じように災いは臨む。信じる者だけには災害が臨まないということではない。遠ざけるということは災いに近づかないように、遠ざけて下さるという事です。仙台の千田牧師は東北の大津波の時、海岸に近い石巻の近くにいた。その時、彼は「山に逃げよ」との言葉が浮かんだ。すぐに山に逃げた。それで津波から脱出できた。それは創世記19章ソドムが滅ぼされるとき、ロトに神が言われた言葉でした。
 一つ言えることは、たとえ信仰者が災いにあっても、神を愛する者には万事が益となるようにしてくださるということです。なぜなら、御子さえ惜しまないからです。(ローマ 08:28神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。08:32わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。)
 「目を上げて、私は山々を仰ぐ。私の助けはどこから来るのか。私の助けは来る、天地を造られた主のもとから。」
 誰がなんと言おうとこれが信仰者の姿です。

C121:08あなたの出で立つのも帰るのも主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。
 出で立つのも帰るのも、というのは巡礼の行き帰り、人生の初めから終わりまでということです。日常生活全てとも言えます。年末年始は移動が多くなります。どうか、その全てを主が見守って下さいますように。今も、インマヌエル、神は我らと共にいます!

 この一年の間に、具体的に主の守りを覚えたことがあったでしょうか。エーと何かあっただろうか。よう分からん、と言われるかも知れません。幼子は父母がどんなに注意深く見守っているか意識しません。気付きません。しかし、確かに父母は幼子を見守っていたのです。しかし、成長すると父母の見守りに気付くことがあります。いや、自分が親になって初めて気付くことかもしれません。あなたを見守る方はまどろむことも眠ることもないと言って下さいます。気付かないことが多くても、今ここに生かされている、導かれていることに感謝しましょう。