「人間の葛藤」 ローマの信徒への手紙 7章4〜25章

 人間は4.5歳で「道徳の理解。公共の場でのマナーを意識する。」といわれる。しかし、自分の好きな物や、美味しそうなケーキが出ると少しでも多く食べたい、あわよくば独り占めしていましたい、という貪欲が起こる。これは子供に限らず、私たち大人も誰もが持つ欲望である。それはマナー違反だと教えられていると、そこに、葛藤や罪の意識が生まれる。
 教えられていないか、または力の強い者が奪って当然、早い者勝ちという環境の中で育つと葛藤も、罪の意識も持たない、麻痺する。

 この欲望が原因で、世界ではあちこちで争いが絶えない。領土問題、物、資源の奪い合い、遺産の存続。少しでも多く得たい。そこに争いが起こる。イエス様は、「あらゆる貪欲に気をつけなさい。命は持ち物に寄らない。自分の持ち物を売り払って、施しなさい。富を天に積みなさい。」と言われた。(ルカ12:15)

 行動原理
 私たちは何によって動いているか。つまり、自分の行動原理は何か。
@本能(欲望)・・・・何も考えないで本能のままに動く。動物的。スポーツでは良いこともあるが、自分勝手、自己中心的の場合が多い。
A良心・・・・良心に従って行動する。これも漠然として頼りない。
B法律(律法)・・・・自由主義国、社会主義国、共産主義国、独裁主義国、一長一短。
C愛・・・・家族愛、隣人愛、友愛。
D神への信仰(聖霊の力)
  @〜Cは肉、人間の力、Dは霊、神の力。
 肉は「自然のまま、生まれながらの人間、自分の力に頼る。」、「霊」は神の霊、聖霊を宿し、その力を信じ、頼る。

07:04ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。 07:05わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。 07:06しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。
 @肉に従って生きる(文字に従う古い生き方)
 ここには今では自分の力で律法、掟を守り、死に至る実を結んできた。
 死に至る実とは「肉の業」=姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他。(ガラテヤ書05:19肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、 05:20偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、 05:21ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。)

 A霊に従う新しい生き方
 それは自分の力ではなく、聖霊の力、導き、欲望を支配し、それは神に対して実を結ぶようになる。
 「霊の結ぶ実」=愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制。ガラテヤ書 05:22これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 05:23柔和、節制です。)

07:07では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。 とえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。
 
律法や戒めは教えられなければ、教えられても本気で向き合わないと、それに反することをしても罪の意識は希薄である。力の強いものが多く奪って独り占めして何処が悪い。弱いものが少ないのは当然だ。罪の意識など感じない。当然、葛藤もない。
※例えば、大型漁船で魚を根こそぎ一網打尽に取ってしまう。

07:14わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。
 ここにパウロが律法を霊的なものすなわち、神の恵みとして受け止めている。
 「律法」は、ファリサイ派の人々において、成文(モーセ5章)・口伝の律法(トーラー)であり、ユダヤ教にとって「神が、その本性・目的について知らせたこと、また人間の存在と行動に関する神の意志について知らせたこと全体」をさすものであった。それはユダヤ教の教え全体であり、啓示であった。
 パウロにとって、律法が神の言葉であり、いのちへ導くものであることは知っている。しかし、律法は自分の肉の弱さのために、罪を挑発し、激化させる。律法は人間に罪の自覚を生じさせるだけである。力を与えるものではない。様々な律法もそうだ。道徳、倫理、心理学、哲学もそうである。

07:15わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。 07:16もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。 07:17そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。 07:18わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。 07:19わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。07:20もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。

 それを行っているのは、わたしの中に住んでいる罪です。わたしの中にはイエスを信じる信仰によって聖霊が宿っている。それと同時に、私の中、つまり肉の中には善が住んでなく、罪が住んでいる。

07:21それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。 07:22「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、 07:23わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。 07:24わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。 07:25わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。

 私たちは言われなければ、教えられなければ、自分の欲望のままにして、それを悪いとも思わない。大人になっても早い者勝ち、強い者勝ち、それが当たり前、それで悲しんでいるものや、飢えるものが出ても、何とも思わない。それで罪の意識を持つこともない。これが律法を知らない者の姿です。しかし、神は色々な方法でそれを教えて下さいます。
 もし律法の「自分を愛するように隣人を愛しなさい。心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くしてあなたの神を愛しなさい。」という言葉を教えられ、それを本気で実行しようとすればどうだろうか。とても出来ない肉の自分との葛藤が起きる。神を知り、律法を知って、知らないときと比べて、無神経に生きられなくなる。また、律法は知っていてもそれを真剣に、霊的に受け止めないときは、罪の意識を持つことも少ない。しかし、律法を神から恵みの掟として受け止めて、これを聖霊の力で行うとするとき、罪を罪として、恵みを恵みとして受け止めて、これを聖霊の力で行おうとするとき、罪を罪として、恵みを恵みとしてしっかりと自覚するようになる。葛藤の中で、聖霊により、内なるキリストにより、信仰へと向かう。