「罪を償う供え物」 ローマの信徒への手紙3章21〜25節

 寝屋川の中学生殺害事件が大きなニュースになっています。45歳の男性が二人の中学生を殺害した罪で拘留され、取り調べを受けています。もしそれが事実ならその罪の重さは計りしれません。たとえ、自分のいのちを差し出しても償うことは出来ません。なぜなら、二人のいのちは帰ってこないからです。しかし、この男性が罪を悔い改め、罪の贖いを信じ、二人の命と自分の全能の神の御手に委ねるならどうでしょうか。
 あの十字架上の一人の強盗犯のように。
 では今日の聖書箇所を見ていきましょう。

3:21、3:22
03:21ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
03:22すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。

 律法と関係無く、律法と預言者によって、これは旧約聖書のことです。
 旧約聖書によって立証、証言されていることは神の義であるというのです。そのことを22節でさらに説明しています。
 すなわち、旧約聖書で証言されていることはイエス・キリストを信じることになり、信じる者全てに与えられる神の義です。そこには何の差別も無い。つまり、ユダヤ人も、ギリシャ人も、日本人も、全ての人が受けることが出来る神の義です。
 それは神の義であって、私たち自身の義ではありません。どういうことでしょうか?自分で正しい行いをして、正しい人、義と認められることではないということです。
 私たちが正しい行いによって、神からも人からも正しいと認められるだろう、と勘違いする。つまり、人間の正しさは絶対的ではないといおことです。不完全であり、どこかでほころびが出るということです。

 しかし、神様はそんな私たちを救うために、イエス・キリストをこの世に遣わし、十字架につけ、死より復活させることで、罪の力を打ち破る道を造って下さいました。3:22
 この神の義は私たちの義と違って、絶対的な正しさです。どこまでも変わることはないのです。神の御子が十字架で命をかけて罪を打ち勝って下さった義だからです。この神の義を頂くとき、私たちの義も神の義に支えられて、心の中に起こる罪の思いに打ち勝っていくように助けて下さるのです。

03:23人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 03:24ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
03:25神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。

 私たちはいつまでも正しい心を持ち続けることは出来ない。良い心もあるが、汚い心、罪もある。「人は皆罪を犯して」、とある通りです。
 罪とは何かか。
 神への背反。外に現れる律法違反だけでなく、心の中で考える邪悪な思いも含まれる。
 神の栄光とは何か?神の栄光とは目に見える神の業である。全知全能、愛、聖、義、いのち、が現されることである。
 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。水をぶどう酒に変えられたこと。これは人間の業ではなく、
神の目に見える業である。神の栄光である。

 しかし、罪ある者には神の栄光は受けられない。

 罪が見えなくさせている、とも言えます。罪は神に背を向けている状態です。あるいは時々は罪の呵責で神の方に顔を向けようとするが、ほとんどの時は他の方を向いている。そうして、神から離れれば、離れるほど暗く、希望が無くなってきます。そうなると偽りの光、虚しい希望で補おうとするが、益々失望していく。偽りの慰め、一時的な癒やしは事態を寄り悪くしてしまいます。悪循環に陥ってしまう。

 「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています「が」、この「」は偉大な「が」です。ここで丸で終わってしまうなら、まさに絶望です。しかし、それに続く言葉が暗闇を照らしてくれます。「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通じて神の恵みにより、無償で義とされるのです。」
 ただ、神の恵みによるとある。キリストは罪深き私たちを神のもとに、光の方に引き寄せて、神の子として神の栄光を受けられるようにして下さるのです。神の栄光を受けることが出来るとは、すなわち神の御業を見ることが出来、また、それが私たちの上に現されるということです。

 03:25神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。
 ここの意味は、神はキリストを十字架につけ、その血を流し、殺すことで、人類が於かすすべての罪の身代わりの代価となさいました。それは今まで人が犯した罪も、これから犯す罪も、いっさいを含んでいます。神は私たちの全ての罪をキリスト一人に負わせられたのです。言い換えれば、神は私たちの命の一切の罪を御自分の罪としてひっかぶってくださったのです。