「神様の喜びの世界」 マルコによる福音書1章15節

 『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。』
 この宣言をもって主イエスの宣教が開始されました。福音とは、神が人間の全ての罪を赦し神の子どもとして受け入れ、神様の祝福に与らせる」事です。罪を赦すために神ご自身が人間の罪の刑罰を引き受けられる(十字架での体罰を受ける)ことを、イザヤ書などの預言の中で予告しておられます。

 『神が喜ばれる世界、即ち、神の国は、愛が支配する平和な社会』です。
 支配するとは、他者に対して『心を配り、慰め励まし、助け支えてあげる事』を意味しています。人間誕生の折、神はご自身の霊(心)を人間に注ぎ込んで、他の全ての創造物の世話係にされた事が創世記1章2章に記されています。そして、人間がその様に生活した時の預言は、創世記1章31節で「神はお造りになった全てのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」です。

 何故これを預言とするかは、人間の歴史は、今までの全ての時代において、自然を破壊し、動植物を、乱集乱獲して絶滅に追いやり、他民族、他国や他信条者や他宗教者などの争い戦争に明け暮れ、殺略、搾取、破壊、滅亡へと導き、化学の先端は破壊兵器製造を優先する政策に満ちているからです。兵士や武具の数は減らす方向で協議はされても、破壊力は倍増されている世界の諸強国の現実に悲しみ憂います。
 今日までの人間の歴史は、神様のお喜びになる愛が支配する平和な社会とは、程遠い世界で、人間の歩みの中で、失われてしまった『神様との心の絆』の回復が必要です。「人の子は、失われたものを捜しだして救うために来た」と主は言われます。(ルカ19章10節)

 主イエスは、約3年間の公生活【宣教の働き】があります。其の殆どが「平和な人間社会を作るには」の名題の下での教えや働きでした。その最後の時の、愛弟子への実地訓練は【ルカ福音書22章35-38節】、『剣【力による支配】を用いない教え』です・弟子たちは「・・・・・剣のない者は服を売ってそれを飼いなさい」との、平和の君なる、主イエスの命令に、何のために?と思ったでしょうか。
 そして、翌朝、ゲッセマネでの主イエスの祈りの終わりに、寝ぼけていた3人の弟子達の所に、イエス様を捕獲するため大祭司の手の者達がが近づいた時、弟子ペトロは『剣を鞘より抜き、近づいて来た、大祭司の手下のマルコスと言う名の若者の右の耳を切り落とした。【ヨハネ福音書 18:01こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。 18:02イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。 18:03それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。 18:04イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。 18:05彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。 18:06イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。 18:07そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。 18:08すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」 18:09それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。 18:10シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。 18:11イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」
マタイ福音書 26:36それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。 26:37ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。 26:38そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」 26:39少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」 26:40それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。 26:41誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」 26:42更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」 26:43再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。 26:44そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。 26:45それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。 26:46立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」 26:47イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。 26:48イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。 26:49ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。 26:50イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。 26:51そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。 26:52そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。 26:53わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。 26:54しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」 26:55またそのとき、群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。 26:56このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。 】』

 その時主イエスは、その若者の耳を癒やし(治し)ながら言われた。『剣を鞘に納めなさい。剣を取る(採る)者は皆、剣で滅びる』と。剣=力ではなく、愛の赦しと支えの教えです。他者を愛する、それは、他者の過ちを赦す事が不可欠です。他者の、「思いや立場を理解する事から、赦しと慰めと励ましが生まれ、助け支え合いが始まり」ます。

 現在の世界の状況は、ここに立って考え行動しない限り、平和への道は遮断されたままです。
 それは、未来を受け継ぐ『全世界の子ども達への希望であり教え』です。日本憲法9条だけで、日本の平和は守られて来なかった現実を見つめながら、子ども達への大人の働きを思います。