「神のみ業が現される為に」 ヨハネによる福音書9章1〜7節

 「遺伝」とか「生まれつき」というこよほど、悩ましいことはない。なぜなら、自分では変えられない、どうしようもないことだからだ。
 特に、生まれつき障害を持って生まれてきた人は、どうして、何の因果で、こんな身体に生まれてきたのか、と悩むでしょう。又、何か重い病気にかかったりしたとき、本人も家族も過去のことを思い返し、あれこれと悪かったことを詮索します。

09:01さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
 ここに「生まれつき目の見えない人」が出てきます。イエス様はこの人に目を注がれました。

09:02弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
 そこで、弟子たちは、イエス様に質問します。
 弟子たちは、この人が生まれつき目が見えないのは、本人か、両親が犯した過去の罪の結果だと思っていた。

 目が見えないという結果があるのは、必ず、それまでに何らかの原因があるからだ、と言うのが因果応報の思想です。
 そして、その原因をあれこれと詮索する。これは仏教思想によって色濃く影響を受けてきた日本人にとっては根強い考え方である。
 弟子たちにしてもそうだから、当時はユダヤ人全般がそう言う考えを持っていたことになる。果たして、聖書はそういっているのだろうか。確かに多くの出来事には原因があって、その結果がある。しかし、全てがそうとは言えない。ヨブ記の場合、イエス様の場合、罪を犯し、悪を働いたから苦難という結果を招いた、とは言えない。
 この世においては、きちんと善悪に比例して災難や幸福があるとは限らない。いや、そうではない不公平はケースが方が多い。
 因果応報の思想に捕らわれると、「何の因果でこんな病気にならんとあかんのや」と言うことになる。闇に地に向かう。

 イエス様の答え
09:03イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。
 「そうではない、本人が罪を犯したのでも、両親でもない。神のみ業がこの人の上に現れる為である。」と言われた。光、天に向かう
 つまり、生まれつき障害を持ってこの世に生まれてきたのは、そこに神の業が現れる為だ。この障害や病気になったのは過去の罪の結果ではなく、神の業がそこに現れる為だ、と言われた。

 イエス様がそう言いきった根拠はイザヤ書53章に
 イエス様が彼の病を、障害を、罪を引き受けられたからだ。
53:05彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

 続いてこう言われた。
09:04わたしたちは、わたしをお遣わしになった方(天の父)の業(キリストによる救い)を、まだ日のあるうち(キリストがおられる内に)に行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。

 イエス様は世の光である自分がこの世にいる間に、天の父の業を行わなければ、もうすぐそれが出来ない夜(十字架、再臨)が来る。夜の時は迫っている。ぐずぐずしてはおれない。
ヨハネ08:12イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」

09:05わたしは、世にいる間、世の光である。」
 イエス様は唾を地面に吐いて、その唾で泥をこねた。唾と泥を用いた。そこに意味があるのか?
 ◎マルコ07:32人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。 07:33そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。 07:34そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。
 マルコ 08:23イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。
 唾に癒やしの効能があるのか?
 それ自体が癒やしの効能があるとは考えにくい。確かに唾や泥の成分の中には殺菌などの効果が少しはあるかもしれないが、それで生まれつき見えなかった目が見えるようになることは、考えられない。

 塗られた盲人も何のことか分からなかっただろう。彼は、それをしている人も、誰だか分からなかった。しかし、彼は今まで、生まれつき盲人の原因を色々と聞かされて来たであろう。それは自分の罪、親の罪だということを。しかし、自分の目に泥を塗ってくれた人は、誰の罪でもない、神の業が現れる為であると、言ってくれた。何か目の前が明るくなるように感じられた。

09:07そして、「シロアム――『遣わされた者』(イエス様)という意味――の池(罪のきよめ、十字架の贖い)に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。

 彼がしたことはただ言われた通り、シロアムの池に行って、、目の泥を洗っただけだった。しかし、そこにはすでに目に泥を塗った方に対する期待と希望が生まれており、この方の言われることなら、何だか分からないが、従ってみようという信頼があった。


【結論】
 イエス様に対する期待と希望、信頼、信仰があるなら、そこに神の業が現される。過去の罪あやまちを、あれこれ詮索しない。
 私達は自分ではどうしようもないものを抱えている。イエス様はそんな私達を深く顧み、目を注いでおられる。過去の自分の罪や誰かの罪を詮索することをやめましょう。私達もシロアムの池に行こう。どのような形で神の業が現されるのか、楽しみに主のなされる業を待ち望んでいきましょう

















09:01さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
09:02弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
09:03イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。
09:04わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。
09:05わたしは、世にいる間、世の光である。」
09:06こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。
09:07そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。