「神の国」 マルコによる福音書1章

  (イエス来臨の目的を求めて、1)
 “イエスはガリラヤへ行き、神の国の福音を宣べ伝えて、『神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』。と言われた(マルコ1:15)”
 そこで、今日は「神の国とは、どのような処」?かを聖書から探しましょう。そこから、イエス様が来臨された目的を知ることが出来るでしょう。

 創世記1〜3章は、人間と自然とそこに生き住む全てのもの、との関係を、“”大昔の人たちの理解度に応じて、神話的表現で記述されています。“”
 それは、人間が「見て・考える」ことが出来るようになった時、自分と「周囲のもの・との関わり」を「どのように受け止め、何をしたら良いのか」、と行動に移せる為の教えになっています。

 人間と創造主との関係。2章7節(最初の人間の誕生と受け止めなくてもよい)。自然(大地)との関係、旧約コヘレト12章7節“塵は元の大地に帰り、霊は与え主である主に帰る”とあります。
「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」創世記2章7節
 「生きる者となった」!、とある内容は、霊を入れた方、即ち、神の方に顔を向け、聴き、お答えする生き方です。それ故に、人の喜びは神の喜びであり、人の悲しみは神の悲しみとなる意味だそうです。
 これは、人間の「親と子の関係」の基本を教える言葉だそうです。
 『霊を入れる』とは、心を入れる事で、人間は神の霊を戴き神のお心を理解しているので、神様(創造主)に代わって、「他の全てのもの」に心を配って治め、支え、守るのが、神様が喜ばれる世界・即ち「神の国」です。
 これを人が、他の為に配って援助する事を、聖書は支配すると記しています。
 人間が、そのように自然と他に関われた時のことを、聖書は次のように示しています。
 “神はお造りになった全てののもを御覧になった。見よ、それは極めて良かった”【創世記1章31節】とあります。しかし、人間の今日までに歩いて来た歴史は、どの時代においても、どこの国においても、争い、奪い、殺略した歴史です。
 この世界に来臨されたイエス様が、『神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい』と宣言された事に心を留めましょう。

 創世記4章は「欲望とねたみ」から引き起こされる人間の罪の問題に笈言します。(編纂の資料の違いで、内容のばらつきを感じます)。
 アダムの長子カインはねたみによる怒りから、弟のアベルを殺害しますが、神は、カインを園から追放されますが、なお神は彼を守られます。
 彼が追放された地には、多くの人が住んでおり、彼はそこにいた女性と結婚し、多くの民の先祖になります。
 この箇所では、親であるアダム達が、子供の罪と死に対して抱いたであろう「絶望にも似た、憂いと悲しみ」について何も録していない。
 「カインの子孫のレメクの、復讐の予告の詩があります。カインの為の復讐が七倍なら、レメクの為には七十七倍」。
 神がカインを追放する時、他者が自分を見つけた時、殺されるかもしれない、と恐れて神に助けを願ったのに対して、神の守りの証明として「・・・・カインを殺す者は誰であれ七倍の復讐を受けるであろう!」と、それは、誰もカインに手を掛けるなよ!との忠告の言葉なのです。
 マタイによる福音書18章21、22節での、イエス様の教えは、
“ペトロがイエスのところに来て言った「主よ、兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」、イエスは言われた、「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」。”・・・・

 しかし、歴史は、人が多くなるに従い、他者よりも強くなり支配し、対抗する者たちには死を与える有様で、「神の国の造り人」の生き方とは程遠い人間の歩みです。
 どのような方法で「神の国を造る人間を教え育てようか?」の、第一歩として、自分(神ご自身)の「言葉を守り教え伝える民」造りを始められました。
 それが、父祖アブラハムの選びです。
 それは、人数が多い少ないにはよらない、強い民みだからではない。清い民だからでもない。神に忠実に従い、神に寄り頼む人である所以です。
 神の御心を「他者、他民族に伝える器(道具)として」選ばれたのです。

 “神はお造りになった全てのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。”(創世記1章31節)の預言を成就させる為の選びです。
 そこに立って、日々の歩みをする人達は神からの祝福を受けます。
 それは、力や剣(武力)で他者や他民族や他国を支配することに寄ってではなく。他者。他民族。他国のありようを理解し、『愛と赦しと思いやり』に依って作り出される世界。それが『神の国』だからです。
 この事を、イエス様は最後の実地教訓で示されました。