「神の国」マルコによる福音書1章15節

  (イエス来臨の目的を求めて、2,神の国への歩み、2)

 “イエスはガリラヤへ行き、神の国の福音を宣べ伝えて、『神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』。と言われた(マルコ1:15)”
 イエス様の最後の実地教訓である(剣の破棄の教え)の預言が、その時の約740年程前に、イザヤによって預言されています。
 “主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
 「彼らは、剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を挙げず、、もはや戦うことを学ばない。」
 ヤコブの家(主を信じ従う者達)よ、主の光の中を歩もう。”と。

 しかし、多くの国とその指導者や王達は、自国を守る為ばかりか、その勢力を広め領土を拡張しようと、「鋤を剣に替え、鎌を槍に替える」のです。
その行為は、「現今の社会の国々の歩み」に繋がっています。
 今日は、主義主張の違いや信条の違いで、他を滅亡させようと戦いを激しくし、原水爆の製造に力を注いでいる時代です。

 戦争には絶対反対です。他国の軍事基地の存在にも反対です。しかし、日本国憲法の第九条だけで今日までの日本の「平和な社会」が守られて来たので無い事も私達は知っています。北方四島も未だに日本に帰属していませんし、隣国と接する南西の島々も帰属件で問題を吹き掛けられているのが現状です。大国の力(剣)の支えで今日までの「日本の平和が国家社会」が守られてきた事に、矛盾と反省を覚えます。

 それ故に、今日程「神の国の現実」について、聖書からの学びの必要を思います。そこに、イエスさまが、来臨された目的があります。
 「神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」とイエスは言われます。
 何に関しての悔い改めでしょうか?色々とあるなかで、
**・物事の見方、受け止め方があります。
 私は、その人の理解者。その人の支え人。その人の介助者。
あの人達も私と同じように、他者に受け入れられ支えられている者として、神様に見守られている人々である。だから、人間は、、人種や心情や障害的な何かを持っていても、神の前で皆「平等」である。
**・自然の事物に関しては、
 私は、自然の、山、川、海の「良き管理」を神に委ねられている者。管理とは、其々の状況について、学び、理解し、そのものが一番良い状態を保てるように配慮する事です。
 それは、海中や陸上や空の鳥たちが、その生存している場所が確保されていることです。それを確実にするのが「人間の使命である」、と宣言しているのが聖書です。
“神はお造りになった全てのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった”[創世記1章31節]での預言です。
ここに「神の国」の在り方を見ます。」

 「神の国」に生きる人間の身近な具体的な歩みを聖書で見ましょう。
 *マルコによる福音書2章1~12節です。
1.四人の男性が中風の人を床板に乗せ、イエスが「お話をしておられる家」まで連れてきた。
 **・大勢の人が集まって、戸口の辺りまで、すき間もない程になっていたので、群衆に阻まれて、イエスの所に連れて行けなかった。
2.四人はその家の屋根に上り、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。
 **・イエスさまへの「彼らの願いは記されていない。マタイ伝も同じ」。
3.イエスは、その人達の信仰を見て、中風の人に、
  「子よ、あなたの罪は赦される。」と言われた。
4.指導者、律法学者たちの、イエスさまの言葉についての心の思い。
 **・(この人は、神を冒瀆している。神だけが罪を赦せるのだから?)

 ここに・中風の人と四人の男性の「友情の絆」を見ます。
 他者の家の屋根を勝手に壊す罪を知りますが(後で謝り直すとの思いを見ます。)、「イエスさまだけが彼を助けて下さる事が出来る方」との、彼らのイエスさまに抱く信仰を知ります。
 **・他者と他国と他信条者との関係で、全ての人が悔い改めを求められています。若し、総ての人間が「他者を赦し・共に助け支え合う絆」で結ばれるなら、そこに神からの祝福を戴ける社会(世界)、即ち「神の国」が造られるわけです。
 **・イエスさまは、罪を赦す権威を指導者たちと群衆の前で示し、中風の人を癒されました。「神の国」造りは、身近な処からのスタートです。