『元旦礼拝』「死で終わらない命」 ヨハネによる福音書11章1〜5節

11:01ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。
11:02このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。
11:03姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。
11:04イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」
11:05イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。


 人間にとって最大の出来事は、自分が死ぬということ、あるいは愛する者が死ぬということです。元旦から縁起でもないと言われるかも知れませんが、そういった現実の中で、死で終わらない命、死を超えていく命の福音をイエス様の言葉から聞きましょう。
 
 この病人ラザロの姉妹マリアは主イエス様の足に香油を塗り、自分の髪の毛でその足をぬぐった女であった。彼女のことはこの後の12章に出てくるが、ここにはそれを先取りして記している。この家族では、特にマリアの信仰の行為が後々まで教会で語り継がれていたのでしょう。その中で、ラザロは病気がちであったのか(彼が兄が弟が分かりませんが、印象としては弟)姉妹たちが活発であったのか、彼は何かと目立つ姉妹たちの陰に隠れて、一言も言葉を発していません。影の薄い存在でした。しかし、彼も又姉妹達のようにイエス様が来られる度に。その話しに耳を傾け、イエス様に深く信頼を寄せていたのです。イエス様もこの病弱なラザロを深く心に留めて、11節には「わたしの友」とまで言っています。その彼が死にかけていたのです。

 そこでマリアとマルタの姉妹は、イエス様の所に使いを出して伝えたのです。ところが、この伝言を来たイエス様は意味不明な言葉を言われ、不可解な行動をとったのです。
 「この病気は死んで終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」そして、なお二日そこに滞在したというのです。不思議な言葉と行動です。
 このイエス様の言葉と行動に込められら真意は何か。
 まず、「この病気は死んで終わるものではない。」とはどういうことなのか。原文を直訳すると、「この病気の終わりは死ではない。」です。
 詰まりイエス様は、「ラザロの病気は死で終わるようなものではない。死で終わるようなものなら、すぐに駆けつけて、友を救い出さねばならないが、ラザロはこの病気で死んでも、決して滅びることはない。死を超える命に生きることが出来る。たとえ病気で死んでも彼は永遠に私と共にいることになる。」ラザロの病気と死をエイス様はそのように捕らえたのです。

 私達の肉体の命には限りがある。手術が成功しても、また他のことで命の限界が来る。 イエス様はラザロを病気から救うことだけを考えていたのではなかった。肉体の死を超える命を持っているかどうかを考えておられた。ラザロはそれを持っていた。だから、この病気は死で終わらない、と言われたのです。死を超える命に生きている、バタバタすることはない、そう思っておられたのです。ラザロは日ごろからイエス様の話に耳を傾け、イエス様を深く信頼していたのです。イエス様も病弱なラザロを深く愛し、私の共、と言われたのです。ラザロは既にイエス様の死を超える命に生かされていたのです。

 イエス様はそのマルタに、「あなた兄弟は復活する。私は復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と言われたのです。

  死んでも生きるとはどういうことか。イエスを信じる者は、たとえ病気で死んでも、復活されたイエス様の命に生きるようになる。イエス様の言葉に耳を傾けるなら、そこに信頼が生まれてくる。その時その人はすでに死で終わらない命に生かされつつあるのです。イエス様が共におられるなら、そこには既に死は命に飲み込まれ、死の恐怖は去っていくのです。イエスを信じる信仰によって、死を超えるキリストの復活の命に生かされるということが起こるのです。

 「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」
 この病気が死んで終わるものではない、つまり肉体は死によって朽ちていくけれど、それで終わりではない。イエスを信じる者はその信仰によってキリストの命につながり、生かされるということが起こる。このことのために神は御子をこの世に遣わされ、御子は私達の罪と死から解放するために。十字架につき、復活されたのです。そこに神の栄光が現されてたのです。神の栄光とは神の愛が現されるところに輝くのです。それが御子イエスの十字架でした。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得る為である。」

 癌だと宣告されたときから変わらず、私の心に響いていた御言葉がありました。
 「この病気は誰の罪の結果でもない。神の業が現れるためである。」と「この病気は死で終わるものでない。神の栄光のためである。」
 これらのイエス様の言葉は私をいつも支えてくれた御言葉です。それによって全ては神の御手の中にあること。この癌という病も、家族も、教会も神に委ねていこうと思えた。

※キェルケゴールの著書「死に至る病」より
 「この病気が死を終わりとしないのは、たった一つの理由による。それは『私は復活であり、命である。』といイエスがそこにいて下さる、ということだ。私達は瀕死の病に悩んでいる時にも、その病気で私達は死を最後とする滅びに至りはしないのだ。何故か。それは、主イエスがそこにいて下さるからだ。」