「地には平和を!」 ルカによる福音書2章14節
             ルカによる福音書10章25〜37節

 
主イエスの活動に先立っての言葉は、
 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」でした。
 このマルコによる福音書1章15節の言葉はイエス様の活動の最後まで中心課題であり、今日も続いています。何故なら、神の国は未だ完成されていないからです。
 その完成から増々遠ざかっています。食糧不足や薬品不足で毎日多くの幼児達の命が失われているにもかかわらす、自分達の信条や主義を通すためにテロを計画し、戦争に明け暮れており、大国は新しく強力な武器爆薬を開発し、多くの古い武器を小国に売っています。
 それらの財力を大地の緑化や薬品の開発増産・乳製品の生産に充てれば次世代を次ぐ若者が澤山育つのに!と思います。
 でも、主イエス降誕時の御使いの言葉「地には平和、御心に適う人にあるように」とあり、御心に適う人とはどの様な生き方をしている人だろうか、と思い『神の国』の状況を考えています。そこは「人種や国籍を問わず全ての人が自然を大切に守り、そこに住む動物や植物を世話し守り育てる場所であり、人間同士が互いに『相手を尊重し、理解し合い、慰めはげまい合い、助け支え合い喜びや悲しみを分かち合い、喜びと感謝に満ちた平和な社会』を創り育て合う所」だと理解する時、創世記1章31節の「神はお造りになった全てのものを御覧になた。見よ、それは極めて良かった」との未だ実現されていない預言を見ます。

 本当に皆が力を合わせてそのような世界を創りたいと思う、ヘブル人の歴史書でもある旧約聖書は、指導者達の権限を守る為なのか、神様が多く人間を死に至らしめる記事が多く見られ、神の命令に従わない者は刑罰を受けると教え、罰を与えられる恐ろしい神と紹介しているかのようです。
 主イエスが来られ、常に見守っておられる愛の神が示された時、人々は律法の重荷から解放され、慰めを受け励ましが与えられ、次々にイエス様のお話を聴く為に集まります。
 当時、ローマ帝国の支配下にあったユダヤでは、神の国だと自負する若者たちはしばしばローマ軍にテロ攻撃をかけ、その都度捕縛され、十字架刑にに処せられ、見せしめの為に道路脇にさらされ処刑されました。
 多くの人が集まれば、それを口実にローマ軍に完全に支配されると心配した指導者・祭司は、聴衆の内に内通者を送り込んでイエス様の様子をさぐり続けます。実際に律法学者達も直接イエスの様子を探るため、イエス様のすぐ前面で話を聞きます。
 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうと難問をしかけますが、主はそれを彼自身が答えるように導かれ、「律法(聖書)には何と書いてあるか、あなたはそれをどう読むか」と、問い返されました。

 彼は専門家らしく正しい答えを出すが、自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣り人とは誰デスカ」と言いました。
そこで、主イエスは、私達も日常出会うような譬えを「良きサマリヤ人」で、お教えになります。
 (別記:ルカによる福音書10章25〜37節。サマリヤ人とは)
◎事故、事件、交通事故、病気など等、周りで自分自身に起こりがちな事
◎半殺しとは、誰かが手を貸せば助かるが、放置すれば死に至る状態。祭司やレビ人(祭司の下で神殿の用事をする人)
は、どうすれば良いかをしりながら、
○手助けできなかった理由:血を見て恐れ、自分も巻き込まれる恐れがある為。
○助けなかった理由:死に至った者の血にふれると身に汚れを負う為。
 一年に一度(一週間程)の職務からはずされ、収入も減じ、自分の益を損なう為。
◎サマリヤ人は身の危険も顧みず、キズを負うた人を助け救ってあげたいとの優しい思いで、彼の荷を自分が負い、宿屋に連れて行き医師の治療を頼み、宿泊代など、すべて自分のギセイで支援をした。

 サマリヤ人が宿屋の主人に、怪我した人のお世話を頼んでいる現場に、あなたが居合わせたなら、あながは何を感じるでしょうか・・・。
 『けがした人』に良かったねー、と言葉を掛けながら、自分にも感謝の喜びを、分かち与えられることでしょう。

 この、サマリヤ人こそ、ご自身の命の犠牲で全ての人に救いの喜びを与えられる、イエス様の福音宣教の姿そのものです。私は常も一緒にいるよ、だから「行って、あなたも同じようにしなさい。」と勧めておられるのです。