『神の栄光と十字架』 ヨハネによる福音書11章1〜16節

11:4「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」

 神様はどのような形で栄光を現されるのか、と私は自分の身に当てはめて思い巡らせてきました。ただ一つハッキリしているのは、何よりも大きな栄光は、私の手術の成功と、病気の癒やしのために捧げて下さった皆さん祈りです。
 紀南教会をはじめ、全国の教会、友人、知人の祈りはまさに神の栄光を現すものでした。それは神の愛に動かされて、病める者への愛となり、祈りとなって天に届いたのです。

 神の栄光は、兄弟愛、隣人愛と密接に関係して言える。
 神の栄光が究極的な形で現されたのが御子イエス・キリストの十字架の死と復活でした。それは人間を罪と死から救おうとした神の愛が最もよく現れた出来事でした。それは人間への究極的な愛でした。私達がその神の愛を受け、その愛を原動力として、兄弟を愛し、病める者に寄り添い、癒やしを祈るところに神の栄光が現れるということです。

11:05イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。
11:06ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。
 イエス様はマルタとマリアの姉妹、そしてその兄弟ラザロを愛しておられた、とわざわざ記されている。愛するラザロが死にかけている。その姉妹が死の深い闇、不安と恐れの中で苦しんでいる。愛して居るなら、どうして、冷静でいられましょう。イエス様は、共に苦しまれた。その苦悩の中で、まず天の父の御心を求めて祈った。
 天の父はラザロの死と復活を示し、さらにその先の十字架による御子の死と復活によって、神の栄光が現され、御子が栄光を受けることを明らかにされた。その為に、二日とどまるようにとの答えだった。
 イエス様はすぐに行きたい気持ちを抑え、父の言葉に二日待ったのです。

11:07それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」 11:08弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」
 二日の後、再度のユダヤ行きは、その時が来たことを悟り、命がけのことだった。イエスの命を虎視眈々と狙っている指導者達がいる所に行こうと言われたのですから。何も変わっていない弟子たちの何故そのような危険なところに再び行かれるのですか、と聞いたのです。
11:09イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。
11:10しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」

 これは9章4節に出てくる言葉と々意味である。
11:04イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」
11:05イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。

 (榎本保郎牧師)[イエス様はしばしば「その時は(私の時)まだ来ていない。]といわれたが、イエス様は自分で物事を判断し決めていくのではなく、神の御旨を優先させた。愛するものが病気になっていると聞くと、誰でも早く行きたい気持ちになる。しかし、イエス様は二日間そこへ行くのを遅らせた。なぜか。それはイエス様がまだ時の来ていないことを神から示されたからだったと思う。この様にイエス様の確信の中には、神が定めるときまでは人間に危険がおよぶことはない。それは丁度、昼歩くようなもで、つまずいたり死んだりすることはない。しかし、自分勝手に歩いていくなら、夜歩くようなものだ。]

 (矢内原忠雄氏)「今はmなだ大丈夫だ。勇気を出して、愛の業を行いなさい。やがて、それを行うことが出来ない夜がくる。つまり、この世において命の終わりが来る。その時まで、危険を冒してでも愛の業を勇気を持って行いなさい。

 (上山)「私の命は神の御手の内にある。今回のガンがどんどん悪くなっていくならば、どんなに生きたいと思ってもダメである。お前の役目は終わりだよ、と言われている、と受け止めなければならない。しかし、どんなに厳しい状況にあっても、良くなっていくならば、まだ働き(愛の実践)が残されていると言うことだろう。まだ、その時では無いということである。」


 こう言われた後で、イエス様は反対や危険をものともせず、ユダヤに行き、愛するラザロを死から生き返らせました。神の業、すなわち愛の業をなされた。さらに、エルサレムへ(十字架へ)と向かって行かれたのです。
 愛の実践
 病気の人、苦難の中にいる人に寄り添い、慰め、励まし、祈るということは簡単なことではない。その重荷を自分も引き受けることにもなる。
 天皇の栄光と生前退位
 昨年、天皇が生前退位の意向を示された。天皇は年齢と共に体力面から、天皇としての働きが十分に出来ないという理由だった。天皇としての大切な務めは、国民ための安寧(無事でやすらかなこと)を祈り、その儀式を行うこと、そして苦しんでいる民がいれば、行って励ます。現天皇はしばしば東北の被災地に行って民を慰め、励ました。苦難の中にいる人の前で、腰をかがめ、膝を折り、声を掛けた。国民は、さすがに天皇だ、偉い!と尊敬の念を抱いた。そこに天皇の栄光が現れた。

 神の栄光
 罪にもがき、病に苦しみ、死におののき、人生の重荷に耐えかねている民を見て、神はどうしたか。神は御子をこの世に降し、御子によって世を救おうとされた。御子イエスはその生涯を病める者や罪に苦しむ者、重荷を負う者と共に歩まれた。そして全ての人の罪の身代わりとなって十字架で死んで下さったのです。それだけではなく、死んで葬られ、三日目に復活し、死をも打ち破られたのである。このイエス様の十字架と復活に、人間に対する神の愛が現された。
 私達はそこに神の栄光を見た。死をも打ち破られる全知全能の神、苦しむ民を救うためなら命をも投げ出される神、これこそ真の神、と私達は信じるのです。

 まず先に、神の御子がこの罪深い者のために命を捨てて下さった。この病める者を愛して下さった。私達はその神の愛を受け、それを土台にし、原動力として、兄弟を、隣人を愛していく所に神の栄光は現れるのです。神を信じて一歩踏み出していこう。