『遠くにいる全ての人に』 使徒言行録2章37〜42節

 キリストの福音は誰に及ぶのか、聖霊(復活の命、神の息吹)は誰に与えられるのか。
02:39この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」
 ここでペトロが語っている相手は同胞のユダヤ人達であった。ユダヤ人達は自分達を「特別な民」「選ばれた民」神に近い者と考えていた。反対に、ユダヤ人以外の人々は異邦人、外国人と呼び、神の光の届かない、神から遠くにいる人と考えていた。
 教会はこのユダヤ人を母胎にして生まれたわけですから、初めの教会もこの考えが根強く残っていた。しかし、ペトロは驚くことに、ここで『遠くにいる全ての人に』と言っている。

 こう言ったことを頭に入れて使徒言行録2章の教会誕生の時にしたペトロの説教を見てみましょう。

 教会誕生
 まず、12人の弟子たちに「聖霊」が降った。それはイエス様の十字架と復活から50日目の祭り、ペンテコステ(五旬節)の日のことでした。弟子たちは色々な国の言葉で偉大な神の救いの業を話し出した。人々はビックリ仰天した。その時、ペトロは他の弟子たちと立ち上がり、声張り上げて話した。「今は朝の9時、私達は酒に酔っぱらっているのではない。これは神が預言者ヨエルを通して言われたことが実現したのだ。『終わりの時に、私の霊を全ての人に注ぐ。すると、彼らは預言する。(神の救いの御業を語り出す)・・・誰でも、主の名を呼び求める者は救われる。』使徒言行録 02:17『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。 02:18わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。 02:19上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。 02:20主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。 02:21主の名を呼び求める者は皆、救われる。』 .
ヨエル書03:01その後わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し老人は夢を見、若者は幻を見る。03:02その日、わたしは奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。03:03天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。03:04主の日、大いなる恐るべき日が来る前に太陽は闇に、月は血に変わる。03:05しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたようにシオンの山、エルサレムには逃れ場があり主が呼ばれる残りの者はそこにいる。
 ペトロは更に続けて話した。「イスラエルの人達これから話すことを聞いて下さい。ナザレのイエスこそ、神から遣わされて方です。神はこのイエスを通してあなた方の間で行われた奇跡と不思議気な業としるしとによって、御自分が神から遣わされたことをあなた方に証明されました。そのことはあなた方自身がすでに知っているとおりです。しかし、神はこのイエスを・・・復活させられました。・・・ダビデ王もイエスの死と復活を預言していたのです。だからイスラエルの全家ははっきりと知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを神は主とし、又メシア、キリストとなさったのです。」

 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロと他の使徒たちに「兄弟たち、私達はどうしたらよいのでしょうか。」と言った。
 「イエスを十字架につけろ」と叫んだ人々の心に大きな衝撃を与えたのです。あれから50日(2ヶ月)、彼らはどのように過ごしていたのだろうか。罪のない人を十字架に付けて殺してしまった、、と心の中に深い後悔と、罪の呵責にさいなまれていたのだろうか。それとも、彼らはすでに忘れかけていた時だったかも知れない。
 ペトロの説教を聞いて、あの時の十字架の光景が、イエスの姿が、イエスの声が「父よ彼らを赦し給え。彼らは何をしているのか分からないのです。」と祈る声が、鮮明によみがえって来たのだろうか。
 神に近いと思っていた者が、最も遠い者になってしまったことを自覚した瞬間だった。
 私達も知らずに犯した罪(無知の故)、若気の至りで犯した罪、酒の勢いで犯した罪、皆に同調して犯した罪・・・。
 相手と自分、そしてそれを取り巻く家族、様々な人を巻き込んで多くの人を傷つけていく。「自分を愛するように隣人を愛せよ。」
 ああ、私たちの愛は何と自己中心な愛だろうか。又、何と自制心が弱い頼りないことか。神に繋がり、神の支え、導き無くして罪の誘惑に打ち勝つことはとうてい出来ない。
 ペトロはきっぱりと言った。「悔い改めなさい。めいめいが、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦して頂きなさい。そうすれば、賜物として聖霊をうけます。」
 
この約束は教会がはじまってから今も変わることはありません。

 「悔い改めなさい」
 原文のギリシャ語はメタノイアという言葉が使われている。織田昭氏のギリシャ語小辞典では「心を変えること、考え方の根本を変えること。特に自分への依存、自己の行為の義への依存を捨て去って、キリストに全く依存し、キリストをわが全生活の主とするという点での変更。」と記している。短く言えば、自分を主とすることから、キリストを主とするという変更。

 キリストを主とすると決心したら、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、賜物をして聖霊を受けよ、と勧めている。キリストの復活の命、新しい命に生きる者とされよ、ということだ


 この意味からすると、聖書のメタノイア「悔い改める」ということは根本を変えることだから、何度もするというよりは一度だけでいいということになる。しかし、信仰を続けていると、いつの間にか、その根本までがおかしくなっていることがある。自分が主となり、キリストが従となってしまったり、他のものに置き換わっていたりする。そのようなときは根本を軌道修正しなければならない;それもメタノイア悔い改めと言えるだろう。ガラテヤの手紙303:01ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。 03:02あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。 03:03あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。ガラテヤの教会でも根本の軌道修正が必要だった。

 そのようにキリストを信じた後でも、不信仰に陥り、神から遠くに離れていると思うことがある。エレミヤ書には選民イスラエルの民が、真の神に信頼しないで、様々な偶像神や、大国の力、この世の力に頼り、益々窮地に陥っていく。その民に向かって、神は預言者エレミヤを通して、「立ち帰れ、イスラエルよ」「わたしのものに立ち帰れ」(エレミヤ書4:1)と繰り返し悔い改めを語りかけた。火あれらはその声も無視し、結局はバビロン捕囚という苦汁をなめることになった。これは神が計画したことだった。
エレミヤ書29:11 主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。 12 その時、あなたがたはわたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈を聞く。 13 あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、 14 わたしはあなたがたに会うと主は言われる。わたしはあなたがたの繁栄を回復し、あなたがたを万国から、すべてわたしがあなたがたを追いやった所から集め、かつ、わたしがあなたがたを捕われ離れさせたそのもとの所に、あなたがたを導き帰ろうと主は言われる。

 「この約束」はあなた方にも、あなた方の子どもにも、遠くにいる全ての人にも与えられているものなのだ。悔い改めて、キリストを信じる者なら誰でも罪赦されて、聖霊を受けることが約束されている。遠い、誓いは関係なく、ただキリストを信じる信仰によって、神の賜物、恵をして与えられるのである。復活の命に生かされよう!
 「主の名を呼びもお目ルものは誰でも救われるのです。」(ローマ10:13)


02:37人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。
02:38すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
02:39この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」 02:40ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。
02:41ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。
02:42彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。