「人の評価より神の評価を」 ルカによる福音書18章9〜14節

 今日はペンテコステ聖霊降臨記念日です。
 イエス様は十字架に架かる前に、聖霊を下されることを約束して下さいました。(ヨハネ14章)その時、こう言われた。「私は去っていくことはあなた方にとって益である。なぜなら、聖霊があなた方の中に来て下さり。その光であなた方を照らし、罪について、義について、裁きについて明らかにして下さるからだ。」
 コリントの信徒への手紙二4章6.7節には、そのことを次のように記されています。 04:06「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。 04:07ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。

 神はそのようにして、私たちに光を当て、罪について、義について、裁きについて教えて下さる。また、私たち自身の本当の姿を知らせるのも聖霊の働きである。
 神を知らない、聖霊の光を受けない時は、人と比較して、人の評価をのみ気にしていた。

 聖書はいつも、神を基準に、神の前に自分はどうなのか、どう映っているのか、、どう思われているのかを問うている。聖霊は私たちをそこに導いていく。自分が神の前にどう映っているのか、どう評価されていのかを教えてくれるのだ。罪を知らせ、義、正しさがどういうことであるか、裁きについて、神の裁きはどのようなものか、いつ来るのが、この自分は神の裁きに耐えられるのか。

 さて、今日の箇所18章9〜イエス様は自分は正しい人間だと、うぬぼれて他人を見下げている人々に対して、たとえ話しをされた。
11節に繰り返し出てくる言葉に、「他の人たちのように」「この徴税人のように」がある。ファリサイ派の人は他人と比べ、それを」評価の基準にして、自分を評価している。確かに、他人の評価は気になるし、それなりに的を得ていることもあるますが、それを全てと思ってはいけません。真実を見ている方、神がおられ、最終的な裁き(評価)をされることを知らねばなりません。神の評価は表面的なものではなく。根源的であり、その内側を見られます。その人の動機、どういう思いでそれをしたかを評価される。

 ファリサイ派の人々は律法に定められたこと、それから派生した言い伝えてきた伝統を守っていた。しかし、それは形式的であって、心が伴っていなかった。ただ習慣的にやっていた。そこには喜びも、感謝もなかった。あるのは義務的、世間体、周りの評価であった。神がどう思われるかではなかった。その結果、自分を義とし、周りを裁いていた。

 これは私たちと無関係ではない。
いつの間にか自分を義とし、他人を冷たく裁いている自分がいる。それに気付けばいいのですが、なかなか気付かない・

 (例)  沖縄でのこと
 規則、ルールに厳しい中で育つと、何も考えないで、習慣的に、形式的に守っている。それを守るのが当然だと思ってしまう。
 それがいつの間にか、自分を縛り、守っている自分を義とし、冷たく相手を裁いてしまうものになってしまう。そこにはルール本旨の、互いの人権、自由、平和、が失われてしまう。
 「殺してはならない」との神の律法の精神は、「相手の命を自分の命のように大切にせよ」ということである。
 相手を傷つけ、悲しませることをしない、言わない、それより、互いの徳を高めることを勧められている。(ローマ15:02おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。)
 
 神の律法においてもl、習慣的、形式的に守るときに、人は自分を義としたり、隣人を冷たく裁いたりしてしまいます。そうではなく真剣にその精神を守ろうとするとき、人を裁いたり、批判したり、見下げたり出来なくなる。自分の罪の自覚を持つようになる。
 ファリサイ派の人々の多くは習慣的、形式的に律法を守っていた。神の評価より、人の評価を気にしていた。人に見せる信仰であった。

 わたしたちもこれに捕らわれる。形だけ、上っ面だけ、神よりは人を気にしてしまう。その結果、相手の痛みや辛さを思いやる心を失い。冷たく批判し、裁いてしまう。

 徴税人の祈り
 一方、徴税人はどうであったか。彼はただ一言「神様、罪人の私を憐れんでください。」であった。目を天に上げようとせず、胸を打ち叩きながら、絞り出すようにうめいた。その態度に強い罪意識がにじみ出ていた。徴税人は周りを気にすることなく、ただ神の前に自らをさらけ出して、許しを乞うている。

 「憐れんで下さい」とは、自分の上に神の怒りがくだって当然な罪多き者です、罪を赦して頂く何の価値も、資格もない者です。ただあなたの憐れみにすがるのみです、ということだ。
 社会が富と権力重視の中で、この徴税人がそのような思いになったということは、聖霊の導きによる以外にない。

 わたしたちは、ファリサイ派の人のように表面的に規則を守り、守らない人を冷たく裁く者であろうか。それとも、徴税人のように何を持ってしても償うことの出来ない自分の罪の姿を知り、ありのまま神の前に、イエス様の前にでる者であろうか。
 神の前に、ありのままで幼子のように出て、素直に、飾らず申し上げたい。そのように導き、熱い、温かい心を与えて下さるのが聖霊である。