「涙の預言者エレミヤ」 エレミヤ書1章1〜8節

 北朝鮮はミサイルに続いて「核実験」も行った。
 今、世界はどこに向かっているのか。その危機はどこまで来ているのか。ノアの方舟の時、洪水が起こるまで人々は飲み食い、めとるなどしていた。洪水が来て取り去られるまで人々は洪水に気が付かなかった。イエス様は、御自分が再び来られる再臨の時もノアの時と同じだ、と言われた。確かに世の終わりの徴は現れ、キリストの再臨の時は近づいている。しかし、その日、その時は父だけが知っている。だから、目を覚ましていなさいとイエス様は忠告している。

 今日は一日一章の聖書日課でもイザヤ書からエレミヤ書に入っていますので、「涙の預言者」と言われるエレミヤという人物を取り上げたいと思います。
 エレミヤの時代はイスラエルにとっては国が滅びた時でもあった。しかし、そのことを指導者も民衆も現実にそんなことは起こるはずがないと、危機感を持って受け止めることをしなかった。しかしエレミヤは国が罪に満ちた危機的な状態であることを涙ながらに訴え、悔い改めて主に帰ってくるように、神の言葉を語り続けた。

 (1)ベニヤミンの地アナトテの祭司のひとりである、ヒルキヤの子エレミヤの言葉。
  エレミヤは祭司の子であった。エレミヤ「神は高くしたもう」という意味。湯ヶ野ヨシア王の時、主の言葉がそのエレミヤに臨み、彼は預言者として神から召命・指名を受けた。「預言者」は神から神の言葉を預かって、それを民に語る人です。
 エレミヤは40年間(紀元前626年から586年まで)預言者として神の言葉を取り次いだ。その期間はバビロン捕囚という最も屈辱的出来事があった時でした。そのような時に神はエレミヤを選び、神の言葉を伝える預言者として立てたのです。この時、彼は若干23歳(BC627)だった。

 では何故、エレミヤが選ばれたのか。5〜8節とエレミヤのやりとりを見てみましょう
 召命
(5)「わたしはあなたをまだ母の胎につくられないさきに、あなたを知り、あなたがまだ生まれないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした」。
 
神はエレミヤが生まれるずっと前から、エレミヤのことを知っておられ、預言者にしようと白羽の矢を立てていた、というのです。
 これは神の側でのことであって、エレミヤには分からないことであった。
※キリストを信じて「クリスチャンになる」事は、生まれるずっと前から神には分かっている、決まっていることでしょうか。私達はロボットではない。一人の人格を持った者です。神の前に何を選ぶかの選択の自由が常に与えられている。その時、その時、何を選んできたかの結果が今の自分である。ただ、神はすべての人に働きかけて、どこにあってもキリストの福音へ、祝福へと導こうとされている。結果的にキリストを信じるということになっても、それは神の強制ではない。この導きを振り切って、信じないという選択肢も与えられている。

 神から「あなたを生まれる前から知っており、預言者とした」と言われたエレミヤは、6節でそんな大役は無理、自分は年も若く、どう語ってよいか分からない青二才だから出来ない、と抵抗した。20:07 主よ、あなたがわたしを欺かれたので、わたしはその欺きに従いました。あなたはわたしよりも強いので、わたしを説き伏せられたのです。わたしは一日中、物笑いとなり、人はみなわたしをあざけります。

※モーセの場合(出エジプト記 04:10それでもなお、モーセは主に言った。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」)
 エジプトからイスラエルの民を導き出したモーセも神からあなたを指導者として遣わすと言われたとき、口べたな私には出来ません、他の人を使わして下さいと重ねて言った。

 (7)しかし主はわたしに言われた。「あなたはただ若者にすぎないと言ってはならない。だれもで、すべてわたしがつかわす人へ行き、あなたに命じることを語らなければならない。
 口が重いとか、年が若いとか、知識があるとかは問題ではない。問題は自分の考えや能力ではなく、神の言葉をどれだけ正確に聞いて、それを忠実に取り次いでいくかである

 (8)彼らを恐れてはならない、わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである。」と主は仰せられる。
 「彼ら」というのは1:16に記されている人々である。「わが民」と言われているイスラエルの指導者や一般民衆である。彼らは神の言葉(律法)から離れ、他の神々に心を奪われて、うなじの
強い、かたくなで、聞く耳を持たない人達であった。
 それでもエレミヤは苦闘しながら、彼らに神の裁きの言葉を(救いの言葉)を語った。
3:22「背信の子どもたちよ、帰れ、わたしはあなたがたの背信をいやす」

※聞こうとしない人、反発し、攻撃してくる人、色々な人がいる。それでも語り続けることは難しい。エレミヤは涙(愛)を持って語り続けた。涙は悔し涙や、怨みから来る涙ではない。滅びを選択しようとする同胞への悲しみの涙、愛から来る涙であった。
8:2121 わが民の娘の傷によって、わが心は痛む。わたしは嘆き、うろたえる。 22 ギレアデに乳香があるではないか。その所に医者がいるではないか。それにどうしてわが民の娘は/いやされることがないのか。23ああ、わたしの頭が水となり、わたしの目が涙の泉となればよいのに。そうすれば、わたしは民の娘の殺された者のために/昼も夜も嘆くことができる
 破滅に向かう同胞のために心を砕かれ、嘆き、涙した。ここに「涙の預言者」と呼ばれたゆえんがある。涙は愛に通じる。自分を迫害し、命まで取ろうとした者の為に泣いた。まさにキリストの姿である。エレミヤは何故それが出来たのか。「彼らを恐れてはならない。わたしがあなたと共にいて、救う、と言われる」主を信じ、主が共におられたからだ。

 イエス様は十字架に向かって行く途中、エルサレムの都が見えたとき、その都のために泣いて、言われた。「もしこの日におまえも平和の道をわきまえていたなら・・・。
今はそれがお前には見えない。」(ルカ19:42)

「雌鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度も集めようとしたことか。」(ルカ13:34)
 何度も、何度も忍耐強く彼らが悔い改めて帰って来るように手を差し伸べてきた。にもかかわらず、彼らはそれを無視した。そればかりか、そう言うイエスを憎み、迫害し、殺した。イエス様は彼らの行く末を思い、涙を流された。その涙は十字架による 救い、祈りへと向かわせたのです。「父よ、彼らをゆるし給え。」とことんまで赦していこうとうる姿は愛そのものです。


エレミヤ書1:1-8
01:01アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見た幻。これはユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世のことである。
01:02天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。わたしは子らを育てて大きくした。しかし、彼らはわたしに背いた。
01:03牛は飼い主を知り
ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず
わたしの民は見分けない。
01:04災いだ、罪を犯す国、咎の重い民
悪を行う者の子孫、堕落した子らは。彼らは主を捨て
イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けた。
01:05何故、お前たちは背きを重ね
なおも打たれようとするのか
頭は病み、心臓は衰えているのに。
01:06頭から足の裏まで、満足なところはない。打ち傷、鞭のあと、生傷は
ぬぐわれず、包まれず
油で和らげてもらえない。
01:07お前たちの地は荒廃し、町々は焼き払われ
田畑の実りは、お前たちの目の前で
異国の民が食い尽くし
異国の民に覆されて、荒廃している。
01:08そして、娘シオンが残った
包囲された町として。ぶどう畑の仮小屋のように
きゅうり畑の見張り小屋のように。