『行いによって裁かれる?』 ローマの信徒への手紙 2章1〜16節

 1:17にはローマ書全体のテーマが記されている。そこには、「神の義ははじめから終わりまで信仰によって実現される。」つまりイエス・キリストを信じる信仰によって、神の義を頂くことが出来ると言うことです。それははじめから終わりまで信仰によるのであって、決して自分の行いによるのではないと言うことです。
 しかし、今日の2:1〜16には「神さまは私たちの行いに従って裁かれる。善を行う者は永遠の命を与えられる。悪を行う者には苦しみと悩みが降る。」つまり、これは良い行いをする者は裁かれることはない、しかし悪を行う者には裁きが降るということを言っています。これは当然と言えば当然なことですが、エー、これはローマ書のテーマとは違うではないか。どんな罪人も福音を信じる信仰によって救われる。神の裁きが降ることはない、と言うことと矛盾するのではと、錯覚しそうな所です。
 しかし、この箇所は、この後の3:24 「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」までを、あるいはローマ書全体から観て、理解しなくてはいけません。この後の3章9.10節には 「人は皆、罪の下にある。正しい者は一人もいない。」と断言しています。自分の行いによって神さまに義と認められるような人間は一人もいない正しい者は一人もいない、神を求める人はいない、皆罪を犯して、裁きを受けなければならないと言っているのです。そして3:21〜24(ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。 03:22すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。 03:23人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 03:24ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。)には、そんな者でもイエス様の十字架による罪の赦しを信じる者は誰でも恵によって救われる、という福音へと続くのです。
 神は私たちの行いによって裁かれる。それは義なる神からすると当然なことです。それではすべての人が裁かれることになります。しかし、愛なる、憐れみ深い神からするとそれは忍びないことなのです。そこで神は独り子イエス様を十字架につけ、私たちの罪の身代わりとされ、これを信じる者を恵によって救おうとされたのです。

 善玉菌と悪玉菌
 私たちの体内には細菌が一杯いるそうです。腸内細菌は良い菌もいれば悪い菌もいる。全体の2割が善玉菌、1割が悪玉菌。残りの7割は日和見菌。不思議なことにこれらの菌は普段は持ち主である人間と互いに共存共栄しているそうです。人間の消化にとってこれらの菌は無くてはならないものだそうです。
 ただ、それらの菌で病気を引き起こす時がある。それは、その人の免疫力が低下したときに発病しやすいのです。体の抵抗力が落ちたときです。

 これは私たちの肉体だけでなく、心の中もこれによく似ているのです。私たちの心の中には腸内細菌のように善玉も悪玉もあります。つまり、よい心もあれば悪い心もあるということです。よい心のない人は一人もいないし、悪い心、罪の無い人も一人もいない。私たちは愛する者を亡くしたり、難しい人間関係でストレスがまたったり、様々なことで心が弱くなり、落ち込んでしまうことがある。怒りや憤り、怨みや憎しみで一杯になる事がある。そのような時は普段ではしない思わぬ行動に走ることがある。例えば、
最近のニュースから見ますと、
@刑務所を脱走逃亡した青年。A滋賀県彦根市では19歳の警官が上司を拳銃で撃って殺した。B5人の人気グループのメンバーの一人が泥酔状態で、知り合いの女子高校生にわいせつ行為をした。
 自分だったら絶対にしない。それは自分の本当の姿を知らないからです。誰もが悪玉菌にやられる危険性をもっているのです。もし、私たちもおなじような状況に、環境に置かれたら、同じ過ちを犯すかもしれないのです。しかし、それは言い訳になりません。誰でも罪を犯したなら裁きを受けなければならないのです。
 問題は自分なのです。周りの環境を替えても、根本的な解決にはならないのです。環境や人を変えるのではなく、自分が変えられなければなりません。牧師も信者も、同じ穴の狢です。自分は、ましな人間だと思い上がってはいけません。

02:01だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。
02:02神はこのようなことを行う
(恥ずべき情欲、不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ等々)者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。
02:03このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。
02:04あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導
(神へと帰らせる、光にてらされる)ことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。
02:05あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう

 1節に「すべて人を裁く者よ」とあります。人を裁かない人がいるでしょうか。私たちは皆どこかにおいて人を裁いているのです。
 しかし、そこで一番にしなければならないことは、相手を変えることではない。自分自身を変えることです。イエス様はマタイ福音書の7章でこう言われた。
 7:1「人を裁くな。まず自分の目から丸太を取り除け。

 人を見るのではなく、神さまを見上げるのです。神さまの光に照らされて、私たちは初めて自分の陰、闇を知るのです。。光に照らされて、はじめて影もハッキリと見えてくるのです。本当の自分の罪汚れ、汚さ、罪深さを知らされるのです。
 神さまの光、それはイエス様による罪の赦しです、神の御子イエス様は十字架で私たちの一切の罪を負って苦しみを受け、命を差し出して下さったのです。私たちの罪汚れを赦すために十字架に架かり、神の裁きを受けて下さったのです。この神の赦しの中で、この光の中で私たちは変えられるのです、そのイエス様の十字架に現された神の愛の中で私たちは自分の丸太が取り除かれていくのです。

02:06神はおのおのの行いに従ってお報いになります
02:07すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者
(神の方を向いて、人を愛し、神を求める人)には、永遠の命をお与えになり、
02:08反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者
(7節とは反対の人:神の方を向かないで自分を善とし、人を裁き、神を求めない人)には、怒りと憤りをお示しになります。
02:09すべて悪を行う者
(神を神として崇めない者、偶像を神とする者)には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、
02:10すべて善を行う者
(神を崇め、礼拝し、神の愛と赦しを受け、隣人を愛する者)には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。
02:11神は人を分け隔てなさいません。
02:12律法
(自分を愛するように隣人を愛せよ、心を尽くして神を愛せよという定め)を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。
02:13律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。
02:14たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。
02:15こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。
02:16そのことは、神が、わたしの福音
(神の義ははじめから終わりまで信仰によって実現される)の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。