「独り子なる神、主イエスを信ず」 ヨハネによる福音書1章14〜18節

使徒信条
「我は天地の造り主、全能なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」

1:14そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であった。めぐみとまことに満ちていた。
1:15 ヨハネは彼についてあかしをし、叫んで言った「『わたしのあとに来るかたは、わたしよりすぐれたかたである。わたしよりも先におられたかたである』とわたしが言ったのは、この人のことである」。
1:16 わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。
1:17 律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまことは、イエス・キリストをとおしてきたのである。
1:18 神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとりの子なる神だけが、神をあらわしたのである。


 神をみた者は一人もいません。なぜなら神は霊であって、わたしたちの目に見える方ではないからです。神は霊であるにもかかわらず、その衣を脱ぎ捨て、人間の姿をなってわたしたちの所まで降ってきて下さったのです。それがイエス・キリストである。ヨハネは父の独り子と呼んでいる。イエス・キリストは真の神であり、また真の人でした。
 誰かを信じる、とはそう簡単に言えない。その人の日頃の言動を見て、この人なら間違いないだろうと太鼓判を押すこと、認める、承認することである。 ※あの人に任せておけば間違いないと言われる下屋敷町の福祉委員、困難な状況において、常に、真実であり続けることは難しい。そうありたいと願いながら、それを実行できないのが私達の悲しい現実である。

 宮沢賢治の「雨にも負けず」
 雨にも負けず

 
雨ニモマケズ
 風ニモマケズ
 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
 丈夫ナカラダヲモチ
 欲ハナク
 決シテ怒ラズ
 イツモシズカニワラッテイル
 一日ニ玄米四合ト
 味噌ト少シノ野菜ヲタベ
 アラユルコトヲ
 ジブンヲカンジョウニ入レズニ
 ヨクミキキシワカリ
 ソシテワスレズ
 野原ノ松ノ林の陰ノ
 小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
 東ニ病気ノコドモアレバ
 行ッテ看病シテヤリ
 西ニツカレタ母アレバ
 行ッテ稲ノ束ヲ負ヒ
 南ニ死ニサウナ人アレバ
 行ッテコハガラナクテモイイトヒ
 北ニケンカヤソショウガアレバ
 ツマラナイカラヤメロトイヒ
 ヒデリノトキハナミダヲナガシ
 サムサノナツハオロオロアルキ
 ミンナニデクノボートヨバレ
 ホメラレモセズ
 クニモサレズ
 サウイフモノニ
 ワタシハナリタイ

 これは崇高な願望です。学校でも教えられます。こういった願いを持ち続けて努力する子供達が増えるなら未来は明るいとえます。だが、残念ながら教える者も、社会の現実も不真実で満ちています。多くの人はそう願いながら逆の方へと突き進んでいる。

 パウロはローマの信徒への手紙で人の不真実と神の真実についてはっきりと述べ伝えている。
3:13-17「正しい者は一人もいない。あれらののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、口はのろいと苦みで満ち、その道には破壊が悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。」
3:4「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実は方であるとすべてきです。」


 偽りと不真実で満ちている世(暗闇の世、罪の世)を真実な神はそのままに見て見ぬふりをすることは出来ません。万物を造られた神は真実な方ですから、わたしたちが真実な生き方を願いながら不真実に落ちていくことには耐えられない方です。
 なんと神は信じられない方法をとって、不真実なわたしたちを助けようとされました。その方法とは人の姿となって、わたしたちと同じ者になられたということです。
フィリピ2:6-8「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって時分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって死に至るまで、それも十字架のしに至るまで従順でした。」

 神はそのわたしたちの不真実な姿を深く憐れんで、そのわたしたちのところに来て下さいました。わたしたちと同じ姿となって。わたしたちに命がけで真実な道を指し示し、その道を目指して、その道を共に歩んで下さるのです。「私が道であり、真理であり、命である。」
※ある日本女性はカンボジアの孤児院で私財を投じて育てています。カンボジアの孤児達の母親のような存在となり、心を尽くして世話をしている。親が虐殺され、人間不信になってもよい多くの子供達が、はるか遠い国の日本の女性がこんな所まで来てくれ世話をしてくれた。その真実な心、献身的な愛情を注がれ、孤児達は明るく成長している。彼らは決して忘れないだろう。その女性の愛と真実を

 信じるということは神の愛、真実、恵みを受けとめて、承認することだといいました。
 天地万物を造られ、全能の御手と愛を持って治めておられる神を信ず。そのはるかにかけ離れた聖なる万物の創造者が、真実を願いながら不真実に生きるわたしたちの所に、明るさとは名ばかりの暗闇でもがくわたしたちを助け、救うために、わたしたちと同じ姿となって天から降って来て下さった神の子イエス・キリストを信じる。
 何故、イエス・キリストを信じるのか。そればわたしたちと同じ姿となり、同じ空気を吸い、同じ水を飲み、同じ食事をし、その中で真実に生き、真実を身をもって現して下さった。その頂点が十字架の死でした。
 わたしたちは知りませんでした。イエス・キリストがわたちたちの不真実、罪を一身にその身に負って身代わりの死を遂げて下さったことを。
 わたしたちはその愛とい真実、恵みを受け止め、承認する時
「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。」と告白するのです。