「愛の大切さ」 コリントの信徒への手紙13章1〜8節

 「たとえ、人々の異言(カト:不思議な言葉・特別な言葉で神様に向かって祈る。神との霊交が出来る、それが信仰深い人のしるしと考えられていた)天使たちの異言をかたろうとおも、愛がなければ、私はさわがしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらうる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々の為に
使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
 愛は忍耐強い
(口語:寛容であり、他人より害を与えられる場合に、それを忍び、激情に身を任せない。)。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず(カト:見苦しい振る舞いをしない、他人の感情を無益に害することをしない。)、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない(カト:人の悪事を数えない)。不義をを喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。」

 
ここには愛の大切さと、愛とは何かが記されている。ここに記されている愛は、世間一般に考えられている愛とは違う。一般に考える愛は男女の愛、肉体的な愛であり、私達はそれを思い浮かべる。しかし、これは肉体的な愛でも精神的な愛でもない。ここには神の愛が記されている。そして、これは神の愛でありながら、私達人間が求め、得ることの出来る愛でもある。聖書は(使徒パウロは)、人間にとってこの愛が最も大切なものであり、熱心に求めるように勧めている。
 そして、この愛は、どんなに修行しても、善行を積んでも人間の中から出てくるものではなく、神様からめぐみによって、信仰jを通して与えられるものです。そして、求める者には誰にでも分け隔て無く、無償で与えられます。

 人間の本当の姿
 人間は天使にもなれば、悪魔にもなる。人間の本来の姿はどちらなのだろうか。どちらにも行く可能性を持っているのが人間の現実。その違いは何であろうか。家庭環境なのか、それとも社会(国)の問題なのか。
 憲法の前文の全てを書き換え、主要な改正点については、国旗、国家の規定、自衛権の明記、国防軍の保持を規定や緊急事態条項の新設、家族の尊重、環境保全の責務など。
 (第3章 国民の権利及び義務)
新・家族の尊重、家族は互いに助け合うことを規定。
 (旧・家族生活における個人の尊重と両性の平等)
 しかし、改正案では家族についてさらに踏み込んで規定している。家族のことを憲法で規定する、そこまで国が入り込んでくることは何か恐ろしい気もします。国が関与するのは家族が互いに助け合うためのお膳立てをするところまでで、それ以上は踏み込んではいけない。押しつけてもいけない。悪意に取るなら、国が国の都合の良いように、家庭をコントロールしようとしているように取ることも出来る。
 政治家のみなさんに私利私欲、党派党略、おごり高ぶりではなく、誠実に国民を第一に考え、誇りの持てる、愛国心がにじみ出るような国造りを目指してもらいたいものです。
 ※めまざましい経済成長を遂げている中国では拝金主義(お金至上主義)がはびこり、汚職が蔓延し、家庭が崩壊している。
 先日、NHKの番組でこのような中国の現状を取り上げていた。今、多くの人が親子の絆の大切さ、家庭の大切さに気づき始め、孔子の教えと教会の教えに関心を持ち始めている。愛の大切さに目覚めてきている。

※日本大百科全書(小学館)  「愛」について
 愛は文学、道徳、哲学、宗教いずれの観点からいっても、もっとも根本的な観念の一つである。とりわけ、キリスト教の文化圏でばこの観念をめぐって思想が展開していった。東洋にも、「仁」とか「慈悲」という思想がある。
@孔子(紀元前552〜479年)春秋時代の中国の思想家、哲学者、儒教の始祖。
「孝悌(こうてい)は、仁の根本である。*孝・・・年取った親に子がよく仕えること。悌・・・年長の者にはよく従う」ということばからもわかるように、仁は親子兄弟という血縁に根ざす親愛感に発するもので、この感情を無縁の人にまで広げていくことが仁道である。
 作家伊藤整(せい)によれば、「他者を自己とまったく同じに愛しえないがゆえに、憐(あわ)れみの気持ちをもって他者をいたわり、他者に対して本来自己がいだく冷酷さを緩和する」というのが東洋的な知恵のあり方で、この考えから、孔子の「己の欲せざるところを人に施すなかれ」という教えが出てくるのだという。他人を自分と同じに愛することの不可能が自明の前提になっていて、そこから相互に相手を哀れみ、いたわりあう愛が生まれてきてというわけである。
 キリスト教はこの不可能に挑戦し、「己のごとく汝(なんじ)の隣人を愛すべす」と命じる。イエス・キリストは十字架の死によって、真の愛は自己を犠牲にしなければ達成することができないことを自ら示した。そういう絶対の愛が原型として考えられていたからこそ、常人には不可能と思われる厳しい生き方が命じられたのであろう。


 キリストが実現された神の愛に生きるのが人間の本来の姿、神の造られた目的。イエス・キリストは、ここに立ち返れ、あなたがたは悪魔ではなく神の子だ、と言われる。問題は家族でも、社会でも国でもなく神への信仰の問題です。
 ここで言う「愛」とは、 私達が作り出す愛、、つまり「わたしの愛」ではなく、「神の愛」のことです。問題は「神の愛」を受けることの欠如です。だから、パウロは「もっと大きな賜物・神の愛を受けるよう熱心に努めなさい」と言っているのです。
 その姿勢について、ブルンナーという牧師は次のように言っています。
「キリストの十字架は、もしも罪ある人間が信仰を持ってそこに立つ場合には、神の愛が罪みある人間と出会う点なのです。」

 神様、わたしにもあなたの愛が必要です。罪多き者ですが、どうかその愛を是非とも下さい。求めよ、さらば与えられん!