「イエスの名によって立ち上がり、歩け」  使徒言行録3章1〜10節

ヘロデの神殿 ~城派、南北500m、 東西300m、
3:1 ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。
3:2 すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである

 この生まれつき足の不自由な人は40歳を過ぎていた(4:22 このしるしによっていやしていただいた人は、四十歳を過ぎていた。)彼は二重の苦しみを味わっていただろう。
 一つは自分の力で仕事をし、生活をすることが出来ないので、物乞いをするしか生きていく手段がなかった。もう一つはさらに大きな苦しみだった。それは宗教的な差別であった。当時のユダヤ教世界、律法主義社会では因果応報の思想が非常に根強かった。(ヨハネによる福音書9章参照)
 当時のユダヤ人なら誰もが考えることだった。だから、この足の不自由な人も、今までどれだけそのような冷たい言葉を耳にしてきたことでしょうか。自分の惨めな状態を思うと、彼自身も又、そう思うしか、しかたがなかった。なんと悲しいことでしょうか。
[運ばれて来た・・・置いてもらっていた]等は皆、未完了過去形で日々繰り返されている操作を示している。まるで荷物か何かのように「運ばれて」「置かれていた」

 一方、彼が毎日運ばれてきて、置かれた場所は「美しの門」と呼ばれていたところであった。素晴らしい細工を施した青銅製の麗しい門であった。
 もし、目に見える神殿の一つ一つが天の永遠の神殿を象徴しているとすれば、この門は神の恵みの麗しさを表していると言えるでしょう。
 しかし、この人はこの麗しい門の前で毎日、荷物のように置かれ、お金や物だけを求め、神の恵みとは無関係な日々を送っていたのです。
 ここに記されている場面は、今日の社会(私たち)と無関係ではない。
 「美しの門の傍らに坐するこの男の姿は御国を近くに育ちつつ物質を求めて止まない人類の姿に酷似す。」
 お金や物にとらわれて、神の恵みとは無関係に生きていくならば、やがて自分も、他人もあたかも物のように扱うようになる。家庭において。優しい言葉、思いやりの言葉が失われ、やがて会話もなくなり、物のように冷たくなってしまう。社会全体がそうなっていく。
 イエス様はマタイ福音書24章で終末のしるしとして「偽メシアや戦争、飢饉や地震が起こり・・・・最後に多くの人の愛が冷える。」と言われた。

 しかし、一つの出会いによって、大きな転換が起こった。
3:3 彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しをこうた。
3:4 ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。
3:5 その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、
3:6 ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」

 私達は往々にして自分にとって最も必要なるものを求めず、第二義的以下のものを求める。この人も癒される事を求めずに、施しを求めた。しかし、ペトロとヨハネはこの男のm富めに直接には答えません。
「彼をじっと見て」とは弟子達はまず聖霊によって、この男の魂を呼び覚まそうとした。それから、ペトロはこう言ったのです。
「ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」

 ペトロが与えたのはイエス・キリストの御名でした。イエス・キリストの御名を与えたとき、この人は立ち上がって歩き出したのです。
 ペトロの聖霊降臨後は聖霊によって、大胆に確信を持って語った。何の曇りもなく、自分の内にいますイエス・キリストがこれをなして下さる、と宣言したのです。
 「イエス・キリストの名」は「イエスの臨在」そのものです。それは、私達のために十字架についてく死んで下さったイエス・キリスト、罪の赦しと永遠の命を与えて下さるキリストです・ペトロは、「私が持っている宝物、イエス・キリストをあなたにあげよう。わたしもこの方によって立ち上がったのであるが、あなたもこの方の力によって立ち上がり、歩きなさい」と

3:7 そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、
3:8 躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。
3:9 民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。
3:10 彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しをこうていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。

 もし、この人が足が癒された事を喜んでいただけたら、「施し」を受けることと同じ次元のことで終わったであろう。しかし、彼は違った。彼は歩けるようになっても去っていかなかった。イエス・キリストの御名によったからです。彼はどこに行ったのか。彼は、「神を讃美し、この二人と一緒に美しの門を通って神の恵みへと、境内を入って行った」のです。これは彼の人生で、根本的な、劇的な転換でした。
 彼は神に向かって歩き出したのです。彼は神と共に、そして神を信じる人々と共に生きる人になったのです。

 教会がこの世において本当にしなくてはならないことは何なのか。教会の第一義的な使命はイエス・キリストの御名を与えることです。イエス・キリストの御名が与えられるとき、金や銀ではないえないこと、キリストのみがなし得ることが起きるのです。