「父の愛と神の模範」 ルカによる福音書15章11〜31節

「 父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。」エフェソ6:4 
 ディヴィッド・リヴィングストン(David Livingstone、1813年3月19日−1873年5月1日)は、イギリス・スコットランドの探検家、医師・
 ヨーロッパ人で初めて、当時「暗黒大陸」と呼ばれていたアフリカ大陸を横断した。また、アフリカでの奴隷解放へ向けて尽力した人物である。
  リビングストーンの父は貧しいお茶の行商人であったが、村で日曜学校を開いて子供たちに熱心に聖書を教えました。デイビッド少年は内気であったが、お父さんの話をよく聞く素直な利発な子供でした。デイビッドが10歳になった頃、紡績工場で働き出した時、お父さんは一冊の本を薦めました。「これはお前のおじいさんからお父さんも勧められて読み、お前のお兄さんも読んだ。今度はお前の番だよ。」それは「実行的キリスト教」という本でした。

 @父は子供のモデル
 子供に最も大きな影響を与えるのは父である。父親が家庭に責任を持ちどっしりしていることが子供に安心を与える。良くも悪くも、父親は子供にとっては父親像のモデルである。私たちは無意識のうちに父や母と同じ動作をしていることがあります。
 
 私は父から引き継いでいるものがある。それは脳梗塞、いや趣味です。投網、将棋、相撲、プロレス、野球(主にテレビで)、そしてパチンコ、花札などの賭け事。何一つ教えられたことはありませんでしたが、見よう見まねで気がつけば、私たち兄弟にも身についていました。父は子供と遊んだり、子供に説教することはほとんどなかった。子供の事は母親に任せきりだった。だた、母親が手に負えないときは皮の分厚いバンドで子供の尻をみみず腫れができるほどたたいた。だから、私にとって父は怖い存在で、私の方から話しかけたり、相談したりすることはなかった。昔人間の父の素晴らしし面を尊敬していたが、一方では父を反面教師として、私はもっと子供と親しく関わろうとしてきました。

 A神は父親のモデル
 エフェソ6:4「 父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。」
 ★「怒らせてはならない」は「いらだたせてはならない」(フランシスコ会訳)と訳している。
 子供が怒りやすい、切れやすい。いつも不安定だ。何故か。
 @父親が感情的に、力で押さえつける。暴力をふるう。
 A一方的に決めつける。話しを聞こうとしない、お前が悪い、と決めつける。
 B認めてもらえない。一生懸命頑張っているのに、評価してもらえない時。

 ★次に「主がしつけ論されるように」とは、具体的にはどういうことなのだろうか。ヘブライ人の手紙12:5〜712:15 神の恵みから除かれることのないように、また、苦い根が現れてあなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚れることのないように、気をつけなさい。
12:16 また、だれであれ、ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないよう気をつけるべきです。
12:17 あなたがたも知っているとおり、エサウは後になって祝福を受け継ぎたいと願ったが、拒絶されたからです。涙を流して求めたけれども、事態を変えてもらうことができなかったのです。
(新約P417)には、愛する子には訓練を与えられるとある。神は罪に対しては非常に厳しく罰せられる。その代価を求められる。しかし最終的には主御自身が自らを代価として差し出された。これがキリストの十字架の死である。
 父親は罪に対する厳しさと、それを覆う寛大な赦しの心を養うべきである。その模範が神である。

放蕩息子から(ルカ15:11〜32)
 「財産を分けてやる」(15:12弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。)子供の言うとおりにさせた?何が何でも子供の言うとおりにするのではない。その時の判断、見分ける目は先を見通す子供への深い愛である。これは子供への信頼と言ってもよい。子供が自分の間違いに気付いて、必ず帰ってくるとこを信じる息子への信頼である。これなくば、財産を分けることは愚かなことであり、無責任であり、子供にとって害になることが目に見えている。このことは子供にとっては大きな試練の時であった。親を頼りとせず、自分の力だけで大海原に出るようなものである。
 弟息子は親の財産をお金に換えて、遠い国に旅立っていった。そこで、遊びほうけ、湯水のようにお金を使い果たした。落ちるところまで落ちていった。その時、ついに彼は本心に立ち返ったのです。つまり、彼は自分が間違っていたことに気づいたのです。
 弟息子は遠い国から父の家を目指して、かつて意気揚々と出ていった同じ道をトボトボと帰っていった。出て行くときの姿とはまるで変わって、落ちぶれ、足取りも弱々しいものであった。
 しかし、父親はまだ遠く離れていたのに、息子を見つけ、自分の方から走り寄って、首を抱き何度も口づけした。父は必ず帰ってくると信じて待ち続けていたのです。待ちに待ったその日がついに来たのです。
 そして、息子が帰ってくる日のために用意していた、最上の着物を着せ、手には指輪はめ、足には真新しい靴をはかせ、肥えた子牛を屠って、祝宴を開いたのです。

 しかし、それを快く思わない兄がいた。
 兄はあの放蕩に身を持ち崩し、落ちぶれ果てて帰った弟を父がなんのとが目立てもしないで、大歓迎をしたことに腹を立てた。この例え話しの中の兄は、自分の義を誇り、他人を見下げてさばいていたパリサイ人を表していますが(15:1弟は徴税人、罪人)、彼はこのような父の態度に不満を抱き、怒って家に入ろうともしませんでした。
 しかし、父親は、彼を諭すように言いました。「おまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。」と。何と大きな父親のわが子に対する愛ではないでしょうか。

 「愛は不在と隔たりと沈黙には耐えられない。」ということばがあります。この父親は、こんなできそこないのような息子を愛していました。弟息子が父から遠く離れていた「不在」と「隔たり」と「沈黙」には、耐えられないほどの苦しみを味わい、断腸の思いであったことでしょう。『親』という字は『木の上に立って見る』と書く。親不孝な子供でも、親というのは、木の上に立って、わが子の帰りを待っているのです。

 これが主の根本的なしつけ方です。父親もそのようにしなさいと言うことです。
 子供にとって、この時は何が必要なものなのかを見分ける目、知恵、「信じて待ち続ける」愛が最も必要なものです。これを神さまから学び、頂きましょう。
※ヘブライ人の手紙12:10父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。
ヘブライ12:11 およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。
12:12 だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい
。(新約P417)
 父親は立派でなければならないという印象をもってしまいますが、実際、一家の長として立てられた父親であっても欠点だらけなのです。子たちは、神さまの前に自分の無力さを認めている父親の謙遜な姿を見た時、父親の弱さではなく『強さ』を発見します。そして、尊敬をもってそのような父親に従っていくようになるのです。


ルカ15:11 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。
15:12 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。
15:13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。
15:14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。
15:15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。
15:16 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。
15:17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。
15:18 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。
15:19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』
15:20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
15:21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』
15:22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。
15:23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。
15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
15:25 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。
15:26 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。
15:27 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』
15:28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。
15:29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。
15:30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』
15:31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。
15:32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」