「イエスによる以外に救いはない」 使徒言行録4章1〜12節
私たちが作ったり、為したりすることは全て相対的で、不十分、不完全です。人間には絶対というものはない。しかし、もしこれが神となるなら、逆です。神のなす事はすべてが絶対で、もし絶対でないとしたら、その神は信じるには足りない神と言わざるを得ない。
今日は絶対的な神の救いについて「この方以外には救いはない」というテーマで三つのことを聖書に沿ってお話をしたいと思います。
T.イエスの復活の力(1〜4節)
4:1 ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来た。
4:2 二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち、
4:3 二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。既に日暮れだったからである。
4:4 しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった。
サドカイ派の特徴は復活をはじめ、超自然的なことを信じていなかったということです。ところが、ペテロとヨハネが宣べ伝えていたのはイエスの復活のことで、多くの民衆が熱心に聞いていたので、彼らとしてはいらだち、困り果ててしまったわけです。そこで彼らはペテロとヨハネに手をかけて捕らえて、牢屋に入れて口封じをしようとしたのです。
ペテロとヨハネの話しは、彼らが恐れ、困り果てて、ついには手をかけずにはういられないほど影響力があり、多くの民衆を引きつけていた。そのような力はいったいどこから来ていたのでしょうか。それは聖書の力でした。
3章12節ペトロは民衆に言った。「イスラエルの人たち、何故このことに驚くのですか。また、私たちがまるで、自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、私たちを見つめるのですか。
15.16節あなたがたは命への導き手である方を殺しましたが、神はこの方イエスを死者の中から復活させて下さいました。私たちはこのことの証人です。・・・・・イエスの名が、この足の不自由な人を強くしたのです。それは、その名を信じる信仰によるものです。」と、この復活したイエスを信じる信仰によって、聖霊を通してペテロは大胆に語る事ができたのです。実に、イエスの復活の力こそ、弱り果てている人を立ち上がらせることのできる力であり、このように大胆に福音を宣べ伝えることが出来る秘訣だったのです。
生まれながらの人間は、イエス様を裏切ったペトロと少しも変わりません。しかし、死者の中からよみかえられたイエス・キリストを信じる信仰によって、大胆に福音を伝える者とされるのです。
U.本当の権威(5〜7節)
4:5 次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。
4:6 大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。
4:7 そして、使徒たちを真ん中に立たせて、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問した。
※マタイによる福音書21章12〜27節「宮清め」
彼らは自分たちに権威があると思いこんでいましたが、本当の権威者を見失っていたということです。つまり、彼らは外見的な権威だけを主張するも、真に神を恐れ、神に従うという本質、実体を失っていたということです。それが問題でした。そのために彼らの考えも生活もすべてが見せかけだけで、形骸化していました。彼らの関心は神よりも自分たちにあったのです。しかし、それは彼らだけのことではありません。私たちの中にも、自分の益のために神の名を利用するが、その神に従っているかというとそうでもないことがあるのです。教会は果たしてどうか。牧師はどうか。
神のためにと言いながら、知らず知らずのうちに神を利用し、実は自分のために生きているということが多いのではないだろうか。外側だけで神に従うような信仰ではなく、神の御声を聞き、その御声に従うといった中身の伴った真剣な信仰が求められているのです。
V.この方による以外に救いはない(8〜12節)
4:8 そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。「民の議員、また長老の方々、
4:9 今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、
4:10 あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。
このナザレ人イエス・キリストは、彼らが十字架につけて殺した人です。ユダヤ教の最高議会であるサンヘドリンがそのように決めたからです。しかし、神はそんな彼らの権威をあざ笑うかのように、彼らが十字架で殺したイエスをよみがえらせたのです。なぜなら、このイエスこそ真の権威と死者の中からよみかえらせる力を持った方だったからです。この方が、あの足の不自由な人を癒したのです。
4:11 この方こそ、/『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、/隅の親石となった石』/です。
これは何のことを言っているのかといいますと、神殿の礎(イシズエ)の石のことです。詩編(118:23これは主の御業/わたしたちの目には驚くべきこと。)の作者はそのことを歌ったわけです。そしてその隅の親石こそイエス・キリストのことを指していたのです。すなわち、隅の親石がユダヤ人たちによって一度は捨てられたように、イエスはユダヤ教指導者たちによって捨てられ十字架につけられて殺されましたが、この石こそなくてはならないものでした。神はこのイエスを死者の中から甦らせたのです。
4:12 ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」
人間が語ることは絶対ではありません。不十分です。しかし、聖霊が臨むとき、神の言葉となる。神は絶対です。神が与えて下さる救いも絶対です。このイエス・キリストこそ、私たちを罪の刑罰から救い、永遠のいのちを与えることのできる唯一の救い主なる神なのです。