『主の祈りA』 マタイによる福音書 6章5〜13節

6:5「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。 6:6だから、あなたが祈るときには、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。 6:7また、あなた方が祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思いこんでいる。 6:8彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前らか、あなた方に必要なものをご存じなのだ。

 祈るという行為は人間だけに与えられた特権でしょう。祈りは、世界中の古代文明において発生したシャーマニズムや祖霊信仰や自然崇拝・精霊崇拝に至るまで、根源的な要求に基づいた人間の活動様式であることが分かる。祈りという活動は、人間の社会において普遍的である。
 なぜなら、人間は神にかたちに造られ、神と人格的に応答する(祈る)者として造られたからだ。しかし、正しく応答しているとは言えない。というのも、祈るべき対象者である神を知らず、神ならぬ者へ祈っているからだ。そんな人間に対して、神はご自身を、人間の姿(御子)を取って、啓示してくださった。この御子であるイエス・キリストは神との応答の仕方、つまり祈りについて教えたくださった。(詩編8:4〜、主の祈り)

 偽善者たちのように祈るな。彼らは人に見てもらおうと会堂や大通りの角に立って祈る。あなた方はそうであってはならな。人に見えない隠れたところで祈れ、そうすれば隠れたところを見ている神が報いてくれる、と教えている。
 
 @奥まった部屋で戸を閉めて祈れ。
 これは、ただ神のために場所と時間を取り(聖別)、神にのみ心を向けよ、ということです。祈るときも周囲が全く気にならないで、祈れるという人もいるかもしれない。しかし、たいがいの人はそうはいかない。人前で祈ることは遠慮したい。それには二つの要因がある。一つは人目や評価が気になる。いわゆる外的な要因である。もう一つは何を、どう祈って良いか分からない、という内的な要因である。
 しかし、もし、愛する子供が重い病気なら、母親は人目や評価など気にしない、なりふり構わず必死に祈るでしょう。そして、良くなったら、これもなりふり構わず心から感謝の祈りを捧げるでしょう。

 そういった特別のことがあるならいざ知らず、普段はそんなに真剣にはなれない。祈ることも滞りがちになる。けれども、本当は祈ることに事欠かない。自分や周りの人をよく見るなら、多くの恵み、感謝な事、喜ばしいこと、又深刻な問題もかかえている。そして、ここにもあそこにもあらゆることの中に神の御手を、ご配慮を見ることができる。その目は御言葉を通して与えられる。「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、どんなことにも感謝しなさい。」(テサロニケ一3:16〜18)

 又、イエス様はこうも言われた。
6:8彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前らか、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。

 A祈るまえからわたしたちの必要をすべてご存じなら、祈る必要はないではないか。確かにそうだ。しかし、祈りは、病気を癒して欲しい、事故や怪我ら守って欲しいなど、こうして欲しい、ああして欲しいといった願い事だけではない。罪の告白、懺悔の祈り、感謝や讃美の祈り、執り成しの祈り、静聴などがある。イエス様はそれが私たちに難しいことも知って下さっている。だから、こう祈りなさいと祈りの見本を示された。
 「天にまします我らの父よ、
  願わくは、御名をあがめさせたま。
  御国を来たらせたまえ。
  御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。
  我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
  我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、
  我らの罪をも赦したまえ。
  我らを試みに会わせず、悪より救い出したまえ。
  国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。」

 1.祈りの手本
 主の祈りは私たちの祈りの完全な手本、見本です。
 記憶し、繰り返し、まねをする。祈りにおいても、まずはかたちからまねる、そして表面的だけでなく、その精神を理解し、やがて自分の言葉として祈れるようになるl。
 
 2.これはイエス様の父への祈り・応答。
  @神様を父よ(アバ・お父ちゃん)、と親しく呼びかけている。罪多い私たちは聖なる神とは、遙かにかけ離れた関係です。しかし、イエス様は違います。父と子の全く一体の関係です。イエス様は御自分の祈り(応答)を私たちの祈り(応答)とるすために、御自分と父の密接な関係の中に、私たちも入ってくるように招いておられる。(ヨハネによる福音書17:21  ローマ信徒への手紙8:15)

 A「御名(神)を崇めさせたまえ」
 しかし、万物の創造者が、塵にも等しい罪人のために御子をさえ惜しまずに与えて下さったことを、知れば知るほど、神を崇めずにはおれなくなします。神を崇め、讃美することこそ、人間の最高の栄誉です。

 B「我」ではなく「我ら」とある。
 これは教会、つまり信仰の共同体の祈りである。信仰の仲間のこと、ひいてはまだ信じていない人のことを覚えながら祈るのです。「我らの日用の糧を、与えたまえ」と祈るときにも、私だけの糧ではなく、私につながる者たちの食べ物も与えて下さいと祈っているのです。また、「我らの罪をも赦したまえ」と祈るときに自分だけでなく他の人のために罪の執り成しの祈りをしているのです。

 C「御国を来たらせたまえ」
 御国とは神の国です。国とは支配ということですから、これは神様の支配がきますように、という祈りです。究極的には「主の日」つまり「キリストの再臨」のことです。

 これを心から祈ることが出来るか。こころもとない。でも、この祈りを手本として祈っているとき、自分の祈りにイエス様の声がそれに合わさって、やがてそれが自分の声か、イエス様の声が分からなくなるように、一つになって心から祈りとなっていくのです。朝起きるとき、寝床で仰向けでも、主の祈りを2回繰り返し祈って一日を始めてみましょう。