『謝罪と償い』 箴言28章13節

「その罪を隠す者は栄えない。告白して罪を捨てる者は憐れみを受ける。」

 10日前の8月8日、午後5時頃、自身の緊急速報が入る。
 暫く様子を見ていましたが、何も起こらなかった。結局、気象庁の誤報だということが分かった。気象庁の地震火山部長は記者会見で「交通機関や多くの人に大変な迷惑をかけ、おわびし申し上げる」と謝罪した。
※中国人の反応
 「日本は好きじゃないけどさ、どっかの国(=中国)よりはずっとましだって認めざるを得ないよ」
 「中国の官僚や政治家も“謝罪する”ってことを早く学んでくださいね」
 「官僚が頭を垂れて国民の尊敬を得る。日本ってホントすごいな


 普通、「謝罪する」と言うことは、自分の過ちを認めていることだから、それに伴う責任問題と損害賠償の問題が起きる。だから、例えば車の事故でも、簡単に謝るべきではない、とよく言われる。世知辛い世の中です。何でもお金が問題になるからです。しかし、何にしてもお金でそんなにわりきれるものではない。互いの相手の立場に立って考えることができれば、平和な社会が実現できるのにと思う。戦後68年になる、戦争責任は?

何が罪で、何が罪でないか、をしっかりと見定める。
私たちは何が罪で、何が罪でないか、何を基準にして考えていけばいいのか。そのあたりが曖昧になっていないだろうか。明確な物差しを持っていない。何が罪で、何が罪でないか、の判断基準、物差しを、神は「モーセの十戒」に規定しているので、それを見ていきましょう。 
 【モーセの十戒】
@わたしの他に何ものをも神としてはならない。
A刻んだ像を作ってはならない。それにひれ伏したり、仕えたりしてはならない。
B主の名をみだりに唱えてはならない。
C安息日を覚えて、聖とせよ。

 以上は神に対して犯す罪(対神関係)
D父と母を敬え。(父母を呪う者は死刑にされる)
E殺してはならない。
(誤って人を殺した場合、逃れのまち。民数記35:9 はモーセに告げて仰せられた。
10 「イスラエル人に告げて、彼らに言え。あなたがたがヨルダンを渡ってカナンの地に入るとき、11 あなたがたは町々を定めなさい。それをあなたがたのために、のがれの町とし、あやまって人を打ち殺した殺人者がそこにのがれることができるようにしなければならない。12 この町々は、あなたがたが復讐する者から、のがれる所で、殺人者が、さばきのために会衆の前に立つ前に、死ぬことのないためである。13 あなたがたが与える町々は、あなたがたのために六つの、のがれの町としなければならない。14 ヨルダンのこちら側に三つの町を与え、カナンの地に三つの町を与えて、あなたがたののがれの町としなければならない。15 これら六つの町はイスラエル人、または彼らの間の在住異国人のための、のがれの場所としなければならない。すべてあやまって人を殺した者が、そこにのがれるためである。)

F姦淫してはならない。
G盗んではならない。
H偽証してはならない。
(嘘をつく、欺く)
I隣人のものを貪ってはならない。
 以上は人に対して犯す罪(対人関係)

 この戒めを守る時、心にとめなければならない大切な点を二つ。
まずはこの戒めを破った時、
A.動機が何か。
 @故意か、そうでないか
  故意の殺人か、誤ってした殺人か(逃れの町:民数記35:9〜)
  故意による嘘か、自分の意に反した嘘か(ユダとペトロの裏切り)
 A知って犯す罪と知らずに犯す罪
  テモテ一1:13「以前、わたし(パウロ)は神を冒涜する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。しかし、信じていないとき、知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。」
 次に、守る心の問題
B、形式的か、心からか
 @富める青年(マタイによる福音書19:16)
 イエス様の時代、ファリサイ派や律法学者たちは形式的に守っていた。
 Aイエス様は心の中まで問われる。
マタイによる福音書
5:21〜「あなたがたも聞いているおとり、、昔の人は『殺すな。人を殺したものは裁きを受ける。』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者は誰でも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、。最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」
 実際、刃物で殺人をしなくても、言葉によって、人を殺すこともできる。言葉による暴力DVです。姉ね、能なし、役立たず、いないほうがましだ・・・。
27「あなたがたが聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」

 ※十回を基本にした。律法は以下に要約される。
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして神を愛せよ。隣人を自分のように愛しなさい」

 イエス様は私たちの心を、真心を求められる。
しかし、わたしはここから神の掟を守り、心を尽くして神を愛し、隣人を自分のように愛している、とは言えない。心の中まで問われ、その心を御存知の神の前では自分には罪がないといえない。モーセの十戒お何一つ守れない者である。

 神はそのことは百も承知である。神が求めておられる真心とは、箴言にもあるように、「その罪を隠すのではなく、告白して捨てることです。」
詩編51:18.19には「神は求めるいけにえは打ち砕かれることです。」
悔いる心を、神よ、あなてゃ侮られません。

 また、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようとせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」(ルカによる福音書18:13)

 そのような心で、自分の罪を認め、告白する者を神は深く憐れんで下さる。それは罪を捨て、神に自分の真心を与えたことになるのだから。それに対して神も御自分の真心を持って応えて下さる。
 その神の真心が、御子イエス・キリストにいかんなく現された。御子をこの世に降し、私たちの一切の罪を御子に負わせ、十字架で償って下さったのだ。
ローマの信徒への手紙3:23.24
「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」
 共に、ここに立とうではありませんか。