『わたしは復活である』 ヨハネによる福音書11章1〜44節
  (限られた命を生きる)

 元旦礼拝で、私の友人である木村牧師の手紙を紹介しました。彼の奥様、恵子さんはガンで昨年12月12日に64才で召されました。長男が生まれて11ヶ月で乳ガンになり、23年もの長い間、死を目の前にしながらの生活でした。こども達が大きくなるまで生かして下さい、と祈り、次には、子ども達が成人するまで生かして下さいと祈った。・・・「痛みと苦しみの中で、自分は神さまに生かされているから生きていることに気づいた。それが喜びなんだ、・・・と。」神の為すこその『その時』の素晴らしさを感じています。
 私たちもまた限られた命を生きています。それはまた、神さまに与えられている命でもあるのです。自分の命であるようであって、神から与えられている命であるのです。私たちはなかなかそれが分かりません。分からなくてもそれが事実なのです。それをどう生きるか神さまが私たち一人一人に委ねています。今年一年、このことを頭に置きながら一日一日を大切に生きましょう。
 
 イエスの生涯

 人間を罪と死より救うために、私たちに復活の命を与える為に、自らの生涯をささげました。その目的達成のためにのみ生きられたのです。
11:1さて、ひとりの病人がいた。ラザロといい、マリヤとその姉妹マルタの村ベタニヤの人であった。
11:2このマリヤは主に香油をぬり、自分の髪の毛で、主の足をふいた女であって、病気であったのは、彼女の兄弟ラザロであった。
11:3姉妹たちは人をイエスのもとにつかわして、「主よ、ただ今、あなたが愛しておられる者が病気をしています」と言わせた。
11:4イエスはそれを聞いて言われた、「この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」。
11:5イエスは、マルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。
11:6ラザロが病気であることを聞いてから、なおふつか、そのおられた所に滞在された。
 
何故、すぐに行かれなかったのか。今している仕事が一段落してから行こうとしていたのか。そんなに緊急性を感じていなかったのか。そうではありません。愛する者が苦しんでいる、死に瀕していることはよく承知していた。今すぐにでも飛んでいって癒してやりたいと思っていた。しかし、さらに、根本的な癒しのためにぐっとこらえて、その時を待っていたのです。4節の「神の栄光のためである」が答えです。イエス様の目的は病気の癒しではなく、死人を生き返らせて、御自分が死を超える命、復活の命を与える者であることを知らせ、信じる者が起こされるためでした。それが神の栄光が現れることであった。だからすぐ行かなかった。その目的を達成するために一番良い時を待っていた。それが2日後だったのです。

11:7
それから弟子たちに、「もう一度ユダヤに行こう」と言われた。
11:8弟子たちは言った、「先生、ユダヤ人らが、さきほどもあなたを石で殺そうとしていましたのに、またそこに行かれるのですか」。
11:9イエスは答えられた、「一日には十二時間あるではないか。昼間あるけば、人はつまずくことはない。この世の光を見ているからである。
11:10しかし、夜あるけば、つまずく。その人のうちに、光がないからである」。
11:11そう言われたが、それからまた、彼らに言われた、「わたしたちの友ラザロが眠っている。わたしは彼を起しに行く」。
11:12すると弟子たちは言った、「主よ、眠っているのでしたら、助かるでしょう」。
11:13イエスはラザロが死んだことを言われたのであるが、弟子たちは、眠って休んでいることをさして言われたのだと思った。
11:14するとイエスは、あからさまに彼らに言われた、「ラザロは死んだのだ。
11:15そして、わたしがそこにいあわせなかったことを、あなたがたのために喜ぶ。それは、あなたがたが信じるようになるためである。では、彼のところに行こう」。
 
イエス様が死をも支配し、復活の命を与える方であることを、弟子達が信じるようになるために2日待っていた。ラザロを生き返らせることによって、最終的には弟子達や、彼らだけでなく、生き返ったラザロも、それを見に集まってきた人々、さらには全ての人が「復活の命」を得ることであった。

11:16するとデドモと呼ばれているトマスが、仲間の弟子たちに言った、「わたしたちも行って、先生と一緒に死のうではないか」。
 
ユダヤにあるエルサレム神殿にはイエス様を亡き者にせんとする指導者達がいたのです。彼らは神の掟を守ることには熱心であったが、それが形式的となり命を失っていた。さらには、富と権力の虜にもなっていた。民衆は神の権威と命に溢れたイエス様の方になびいていたのです。指導者達はイエス様を妬み、イエスを殺そうとその機会をねらっていたのです。

11:17さて、イエスが行ってごらんになると、ラザロはすでに四日間も墓の中に置かれていた。
11:18ベタニヤはエルサレムに近く、二十五丁ばかり離れたところにあった。
11:19大ぜいのユダヤ人が、その兄弟のことで、マルタとマリヤとを慰めようとしてきていた。
11:20マルタはイエスがこられたと聞いて、出迎えに行ったが、マリヤは家ですわっていた。
11:21マルタはイエスに言った、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう。
11:22しかし、あなたがどんなことをお願いになっても、神はかなえて下さることを、わたしは今でも存じています」。
11:23イエスはマルタに言われた、「あなたの兄弟はよみがえるであろう」。
11:24マルタは言った、「終りの日のよみがえりの時よみがえることは、存じています」。
11:25イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。
11:26また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。
11:27マルタはイエスに言った、「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております」

 
マルタとマリアはこれまでもかなりイエス様への信仰は深められていたのですが、愛する兄弟ラザロの病気を通して、それが復活の信仰へと導かれていった。イエス様との対話の中で、その光に照らされ、イエスが誰であるかと認識し、イエスに対する信仰告白27節がマルタを死から復活の命へと、すでに入れられているのである。これは驚くべき神の恵みの御業です。神がそれをさせて下さったのです。

 私たちのこの世の目的は何か。イエス様を信じる信仰に日々生きることです。イエス様を「わが主」と信じて生きることです。仕事をし、子どもを育て、様々な生活があろうかと思いますが、わたしたちが生きているのは神が生かして下さるから生きているのです。私たちの生と死を支配しておられるのは神です。イエス様への信仰によって私たちは復活の命を日々生きることになるのです。それはこの肉体の死に及んでも、決して
消えることのない命なのです。



11:28マルタはこう言ってから、帰って姉妹のマリヤを呼び、「先生がおいでになって、あなたを呼んでおられます」と小声で言った。
11:29これを聞いたマリヤはすぐ立ち上がって、イエスのもとに行った。
11:30イエスはまだ村に、はいってこられず、マルタがお迎えしたその場所におられた。
11:31マリヤと一緒に家にいて彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、彼女は墓に泣きに行くのであろうと思い、そのあとからついて行った。
11:32マリヤは、イエスのおられる所に行ってお目にかかり、その足もとにひれ伏して言った、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」。
11:33イエスは、彼女が泣き、また、彼女と一緒にきたユダヤ人たちも泣いているのをごらんになり、激しく感動し、また心を騒がせ、そして言われた、11:34「彼をどこに置いたのか」。彼らはイエスに言った、「主よ、きて、ごらん下さい」。
11:35イエスは涙を流された。
11:36するとユダヤ人たちは言った、「ああ、なんと彼を愛しておられたことか」。
11:37しかし、彼らのある人たちは言った、「あの盲人の目をあけたこの人でも、ラザロを死なせないようには、できなかったのか」。
11:38イエスはまた激しく感動して、墓にはいられた。それは洞穴であって、そこに石がはめてあった。
11:39イエスは言われた、「石を取りのけなさい」。死んだラザロの姉妹マルタが言った、「主よ、もう臭くなっております。四日もたっていますから」。
11:40イエスは彼女に言われた、「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」。
11:41人々は石を取りのけた。すると、イエスは目を天にむけて言われた、「父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します。
11:42あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれて下さることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります」。
11:43こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。
11:44すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」。