「神の国に生きる」 マタイによる福音書10章7〜15節
 
 先週の総会で今年の紀南教会の「伝道」についての取り組みを話し合いました。人々に神様の福音を知っていただくためにはどうしたらよいのか。
 年4回の瓦版をご近所に配る、分かりやすいトラクトを選んで、来会者や幼稚園の保護者にも渡す。講師を呼んで伝道会をする。第3日曜日の伝道礼拝や第4日曜日の讃美と証しの礼拝、第5日曜日には森川先生が子育てについての話を交えて分かりやすく話す。それらの話を読み物にまとめて、初めて来た人にも分かりやすいものとして配る等々。
 輸血拒否で物議を起こした「エホバの証人」の人達は、主に女性が2人ずつ各家を回って訪問伝道をしています。モルモン教は外国人らしい若者がこれも2ずつ自転車に乗って、通りで学生達に声をかけて勧誘しています。彼らのやり方は聖書的、つまり2人ずつ助け励まし合いながら出て行って勧誘している。
 しかし、その動機は反聖書的です。ノルマ的、脅迫的、恐怖心や功績に根ざしている。つまり行いによって救いを得ようとする。それは明らかに信仰から出ているものではない、と言える。とわいえ、私たちはイエス様が弟子達を「天の国は近づいた」(マルコ、ルカは「天」ではなく「神」と記されているが、同じ意味です)と宣べ伝えよ、と遣わしているのだから、エホバの証人を批判するだけでなくイエス様は私たちが、信仰を持って出ていくことを期待しておられる。

 いつの時代でも伝道の基本は、福音を信じることの素晴らしさを知り、その喜びに生かされている(=神の国、支配に生きる)ことです。それが溢れているなら、特別に何もする必要はないかもしれません。しかし、本当に美味しい料理を味わったなら、何らかの行為になって現れてくるものだ。
 ただ、福音が美味しい料理と違うところ、難しいところは、舌で味わうことも出来ないし、手で触れられる事も出来ない。そして、目で見る事も出来ない。魂の問題であるということです。
 「神の国」は偉い学者でも理解しがたいことでした。そうかといえば、無学な者でもそれが分かり、信じることが出来るものでもあるのです。大切なことは身を低くして、熱心に求めようとする心であろうと思います。;

 イエス様が選んだ12人の弟子は使徒と呼ばれますが、彼らはイエス様と寝食を共にした。エイス様が彼らの生まれ故郷のガリラヤ地方一帯に神の国を宣べ伝え、病気の人や汚れた霊につかれた人々を癒して回られたのを間近に見てきた。そのような日々がどれくらい続いたでしょうか。半年か、一年ぐらいたった時か(大変短い期間を経て)、イエス様は12弟子を呼び寄せて、汚れた霊を追い出す権威を授け、村々町々に出て行かせ「天の国は近づいた」と宣べ伝えよ、と言われたのです。
 それは弟子達の訓練という一面もあるが、それよりは多くの人が神の言葉を待っていたから、自分一人でするより弟子達が手分けして回る方がより多くの人に伝わるからでした。(マタイ3:35〜38(マタイ:9:35イエスは、すべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。9:36また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。9:37そして弟子たちに言われた、「収穫は多いが、働き人が少ない。9:38だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」。)
 この後10章で。すぐ弟子達を呼び寄せられ、今度はあなたがたが宣べ伝えよ、と言われたのです。これは弟子達にとっては大きなチャレンジであったことでしょう。
 自分たちがイエス様の代わりに、神の言葉を告げなくてはならないのですから、どう話せばよいかという戸惑いと共に、いっかいの漁師の言うこと人々が聞いてくれるだろうかという不安もあったであろう。
 イエス様は弟子達の思い、不安、能力を知らないはずはありません。それをよく知った上で、選び、遣わそうとされたのです。それまでの何ヶ月かの準備と、彼らに御自身の癒しの権威を授けると共に、一人でではなく二人ずつ一組となって遣わされたのです。二人ずつというのは互いに助け合い、補い合うと同時に証人ともなりうるからです。

 ※権威を授けられるということは出て行くための、大きな力となります。しかし、実際にはそういう権威が与えられていないと思うから、私たちは出て行くことに、躊躇するのです。榎本保郎師は「一日一章」の中でこう言っている。
 「12使徒は、イエスの権能、権威を授かって、イエスの御業を遂行しているものである。今日12使徒の権威を受け継ぐものは信徒一人一人であると受け取ったのが、プロテスタント教会の万人祭司主義である。聖職として、牧師とは別であるとするのではなく、信徒も又神からそういう権能を与えられている者であるという立場で、信仰生活を送っていくのである。」
 榎本保郎牧師や信徒はそう信じて、出て行ったのです。

 ペトロを初め弟子達も又、私たち以上におじける、戸惑う要素はあったでしょう。それでも彼らは遣わされ、イエス様の言葉を信じて出て行ったのです。ルカ(10:17〜20)には、彼らは喜んで帰ってきた、とある。
 まずは、結果はどうであれ、御言葉に従ってやってみることでしょう。今年はそういう計画を立てることも大切であろうとおもいます。
ルカ(10:17七十二人が喜んで帰ってきて言った、「主よ、あなたの名によっていたしますと、悪霊までがわたしたちに服従します」。10:18彼らに言われた、「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た。10:19わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう。10:20しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」。)

ローマ信徒への手紙10:14〜15
 わたしたちも宣べ伝える者がいたから信じたのです。わたしたちは福音を宣べ伝えるために立てられているのです。神がふさわしい者ちすてこの世に遣わして下さっているのですから、神の約束を信じて、その任に応えるべく、挑戦していきましょう。
ローマ:10:14しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。10:15つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。

◎マタイによる福音書101〜15
11 町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。
 ふさわしい人とは誰のことか。ルカ19章ではイエス様は当時人々から罪人扱いされていた徴税人の頭ザアカイの所を目指して行かれました。「今日は是非あなたの家に泊まりたい。」「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われた者を捜して救うために来たのである。」もう一つの参考になる箇所はマタイ25:30〜40
マタイ:10:1そこで、イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやす権威をお授けになった。10:2十二使徒の名は、次のとおりである。まずペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレ、それからゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、10:3ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、10:4熱心党のシモンとイスカリオテのユダ。このユダはイエスを裏切った者である。10:5イエスはこの十二人をつかわすに当り、彼らに命じて言われた、「異邦人の道に行くな。またサマリヤ人の町にはいるな。10:6むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行け。10:7行って、『天国が近づいた』と宣べ伝えよ。10:8病人をいやし、死人をよみがえらせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出せ。ただで受けたのだから、ただで与えるがよい。10:9財布の中に金、銀または銭を入れて行くな。10:10旅行のための袋も、二枚の下着も、くつも、つえも持って行くな。働き人がその食物を得るのは当然である。10:11どの町、どの村にはいっても、その中でだれがふさわしい人か、たずね出して、立ち去るまではその人のところにとどまっておれ。10:12その家にはいったなら、平安を祈ってあげなさい。10:13もし平安を受けるにふさわしい家であれば、あなたがたの祈る平安はその家に来るであろう。もしふさわしくなければ、その平安はあなたがたに帰って来るであろう。10:14もしあなたがたを迎えもせず、またあなたがたの言葉を聞きもしない人があれば、その家や町を立ち去る時に、足のちりを払い落しなさい。10:15あなたがたによく言っておく。さばきの日には、ソドム、ゴモラの地の方が、その町よりは耐えやすいであろう。

マタイ:25:35あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、25:36裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。25:37そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。25:38いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。25:39また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。25:40すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。

 神の国に生きるとは、自分の力や考えではなく、神の御言葉、その約束を信じるということです。たとえ、その通りにならなくても、従い続け、挑戦し続けることが、神の国、支配に生きるということではないでしょうか。