「信じる」 マルコによる福音書5章25〜34節

 信じる、ということは言うまでもなく大変大切なことである。しかし、誘拐事件や振り込め詐欺、脱法ハーブと称する麻薬売買、インターネットによる性犯罪など巧妙で、悪質な犯罪が後を絶たず、まずは疑ってかからなければならない社会の状況である。だからか、信じる力が弱くなっているのではないだろうか。ちょっと待てよ、とブレーキがかかる。ほんとうに信じてよいのだろうか。何か、絶対的な存在を知ることは大きな安心であり、悪い者を見抜き、打ち勝つ力となる。
 信じられる神を持つことは、お互いが信じられる関係を造り上げる上で最も重要な点です。疑うことではなく、信じ合うことこそ、人間本来の姿ではないだろうか。

 人間同士は信じることに限界がある。信じていたのに裏切られた、と言うことはよくあるとおりである。それが社会の現実(罪の現実)である。信じることが少なく、疑うことの多い社会は殺伐となる。金儲けのためには、人の弱みにつけ込んだり、人をだましたりして、金を巻き上げ、それで傷づこうが、悲しもうが、だまされた者の方が悪いという風潮が蔓延していく。
 
 2千年前のパレスチナにおいても犠牲者がいた。12年間も婦人病を患っていた女性が悪徳医者にかかり、全財産を失ってしまったのである。
05:25さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。 05:26多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。
 彼女は多くの医者にかかったが、ひどく苦しめられた、とある。何歳ぐらいの女性か分かりませんが、この女性は結婚している女性で、34節にイエス様が「娘よ」といっていることがらすると、若い女性ということになる。つまり、結婚はしたが、この病気で子供ができない、色々な医者の所に行ったが親身になって治療してくれる人はおらず、ひどく苦しんでいたのではないか。
 今でも大金をかけて不妊治療をしているか方は多い。しかし、それは肉体的にも、精神的にも、経済的にも大変な負担になる、という。これを食い物にする悪徳業者もいる。
 この女性は全財産を使い果たしても、よくなるどころかまずまず悪くなっていった。人も神も信じられない、まさに生きる望みさえ失われるような状況であった。その彼女が、
05:27イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。 05:28「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。 05:29すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。
 「イエスのことを聞いて」誰から聞いたのか、何を聞いたのか分からない。おそらく、知り合いの人でイエス様に癒された人がいて、その人から聞いたのかもしれない。
「衣にでも触れれば癒して頂ける、と思った」
ただ、聞いただけで、そういう思いにされた。彼女はイエスを信じた。
 
 「後ろからイエスの服にふれた」
 後ろからふれた、と言うのは、この病気は汚れた者と呼ばれ、前から堂々と申し出ることなど自分のような者にはできないと思ったからだろうか。(レビ記15:25もし、生理期間中でないときに、何日も出血があるか、あるいはその期間を過ぎても出血がやまないならば、その期間中は汚れており、生理期間中と同じように汚れる。
レビ記20:25.あなたたちは、清い動物と汚れた動物、清い鳥と汚れた鳥とを区別しなければならない。動物、鳥、すべて地上を這うものによって、自らを憎むべきものにしてはならない。これらは、わたしが汚れたものとして、あなたたちに区別することを教えたものである。 20:26あなたたちはわたしのものとなり、聖なる者となりなさい。主なるわたしは聖なる者だからである。わたしはあなたたちをわたしのものとするため諸国の民から区別したのである。
聖なる者と汚れた者と区別しなければならない。)

05:30イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。 05:31そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」 05:32しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。 05:33女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。 05:34イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

 「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。」と言われているが、ただ無限の力を持った方であると信じただけであった。
 この女性は鰯の頭も信心から、というように信じたのではなかった。このイエスを信じたのである。そこに彼女の癒しと救いがあった。

 信じる、ということは信じる対象者と一つにされる。一体化される、と言ってもいい。
 サタンを信じる者はサタンと一体となり、妻を信じる者は妻と一体になる。イエスを信じる者はイエスと一体になる。この女性はイエスを信じた。イエスの力がこの女性に流れ込んだ。丁度、信じることで、電気のコードをコンセントに差し込んだとたんに、電気が通じるように、この女性の中にイエスの命が流れ込んでいった。

 ※宗教改革者のルターそれをこう表現しています。
 「ちょうど鉄が火と一緒になって火のごとく真っ赤になるのと同じである。信じると言うことはかくも力があるものである。また、どんな良い業も信仰に及ばないのである。」(キリスト者の自由より)
 
この女性はそのまま去っていくこともできた。しかし、彼女はイエスの前に進み出てすべてを告白した。このことによって、一回限りのつながりではなく、イエスとしっかりと繋がる信仰へと導かれた。

 イエスを信じるということはイエスと一体となるということです。その力、命、愛、すべてのものを共有するのです。信じることの難しい世の中で、全力でイエス様を信じていきましょう。