『福音は異邦人へA』 使徒言行録11章1〜18節

 キリストの福音は、ペンテコステ聖霊降臨以来、使徒たちを通して、聖霊の不思議な業やしるしによって、多くのユダヤ人が信じた。
 10章には使徒ペテロが、迫害で散らされた仲間を励ます為にヤッファに来た時、不思議な幻を見た。それから神に導かれてカイザリアまで行った。そこで、ローマの百人隊長に福音を語ったところ、ちょうど、ペンテコステの時のように、聴いた人々の上に聖霊が下って、彼らは異言を話し、神を讃美した。そして彼らはキリストの名によってバプテスマを受けたのである。

 割礼の問題
 ローマ帝国の百人隊長コルネリウスと家族は非常に敬虔な、信仰深い、神を畏れる者たちであったが、たしかに彼らは割礼は受けていなかった。ユダヤ人にとって家に入ったり、食事を共にするために、割礼は絶対不可欠な条件であった。これは新約時代には特に厳しくなっていた。
 ◆新約時代のユダヤ人は人間を3つに分けた。
1.ユダヤ人
2.ギリシャ人(ローマ人も含めた文明に開化した人々)
3.未開の人(文明に浴しない人々)コリント一14:11外国人、野蛮人。14:11だから、もしその言葉の意味が分からないとなれば、話し手にとってわたしは外国人でありわたしにとってその話し手も外国人であることになります。

 ◆その他の分け方として、
割礼を受けた者(ユダヤ人、改宗者)
無割礼の者(それ以外の人)

 ※ユダヤ教改宗者について(マタイ23:15律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。使徒言行録6:6使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。)
 改宗者には2種類あった
@ヘレニズム(パレスティナ以外の離散のユダヤ人)のユダヤ教
 故郷、友人、親族の習慣を捨てて、ユダヤ教の制度に従う人のことである。必ずしも割礼を受けた者とは限定しない。
Aパレスティナのユダヤ教
 割礼を受け、トーラー(成分律法:モーセ5章)の掟の全てに従う意志を持たねば改宗者とは見なされなかった。

 百人隊長コルネリウスは割礼を受けていない改宗者(神を畏れる者)であった。エルサレムの割礼を受けているユダヤ人たちは、コリネリウスをユダヤ教への改宗者とは認めないで、異邦人と見なしていた。
 ユダヤ人が何故それ程、割礼を重んじたかと言えば、ユダヤ人の割礼の起源は遠く、アブラハムまでさかのぼる。(創世記17章)神はまたアブラハムに現れ、あなたは多くの国民の父となる、との約束を繰り返しつげた。そして、「あなたは私との契約のしるしとして、男子には皆、割礼を施しなさい。いつの時代でも、あなたたちの男子は全て家族や奴隷に至るまで、生まれて8日目に必ず割礼を受けなければならない。」と。この神の言葉に従って、アブラハムは神への信仰を表すために、割礼を施した。
 以来、ユダヤ人にとって割礼は神の民のしるしとなった。ところが、新約時代は特に割礼が一人歩きし、形だけのものとなり、アブラハムの信仰が置き去りにされていったのである。本末転倒である。
 パウロはこれを厳しく非難した。
 フィリピ03:02切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。 03:03わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。」

 律法は信仰を問う
 神が律法を定め、イスラエルの民に与え、これを守るように命じた。何故か。割礼の有無や食べ物の規定や安息日の規定、その他の律法の規定の根本精神は何か。
 それは神への信仰を問うためのものである。それらは神を思い起こすためのもの(手段)であって、それ自体が目的となってはならない。
 ※何故、日曜日に礼拝に行くのか。
 安息日は何の為にあるのか。それは人間のためである。一週間の内一日を安息のために聖別しておく。安息は体の休息と魂の休息である。魂の休息は罪の赦しと主がいつも共にいて下さる約束を確認すること(主の晩餐)である。もし、安息日がなければ、人間は休みを取らなくなり、神とのつながりも希薄になって、体も心も疲れ果ててしまう。日曜日の礼拝も神への信仰を問うため(手段)であり、信仰を思い起こすためでもある(感謝と悔い改め)。ただ日曜日の礼拝が形だけ出ていればいい、という目的になってはならない。

 律法は罪を知らせ、福音を聴く備えをさせる
 律法は大切である。その精神を忠実に行うことは全ての人に求められているところである。すなわち、神を全身全霊で愛すること、そして、隣人を自分自身のように愛することである。しかし、これを形式的ではなく、真剣に行おうとするとき、自分の罪深さ、不純な思い、無力さを思い知らされるのである。

 コリネリウスは信仰に篤く、神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず祈っていた、とある。彼こそ真剣に律法に向き合っていた人と言える。彼は自分の罪深さをよく知っていた、分かっていた。彼こそ福音を聴く用意の出来た人と言える。彼かだけでなく、彼の家族、彼の部下、彼の僕もそうだった。
 ペトロがナザレのイエスのことを話した時、彼らはどのような思いで聴いていたであろうか。
使徒10:43また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」

 「この方を信じる者は誰でもその名によって罪の赦しが受けられる」
この言葉はコルネリウスにとってはまさに天来の福音でした。この私の罪が許される。これにまさる喜びはない。聖霊が下るとはこのことではないだろうか。
 これはユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと、未開人であろうと、勿論私たちにとっても何の差別もない。罪の赦しこそ、キリストの福音であり、私たちもその赦しを日々受け、罪許された者として、自分の思い込みで人を裁いてはならない。差別してはならない。
 キリストの十字架の贖い、罪の赦しを日々仰ぎ、罪の赦しの福音に生きる者とされたいものだ。




















11:01さて、使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした。
11:02ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、
11:03「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」と言った。
11:04そこで、ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた。
11:05「わたしがヤッファの町にいて祈っていると、我を忘れたようになって幻を見ました。大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、天からわたしのところまで下りて来たのです。
11:06その中をよく見ると、地上の獣、野獣、這うもの、空の鳥などが入っていました。
11:07そして、『ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい』と言う声を聞きましたが、
11:08わたしは言いました。『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は口にしたことがありません。』
11:09すると、『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない』と、再び天から声が返って来ました。
11:10こういうことが三度あって、また全部の物が天に引き上げられてしまいました。
11:11そのとき、カイサリアからわたしのところに差し向けられた
三人の人が、わたしたちのいた家に到着しました。
11:12すると、“霊”がわたしに、『ためらわないで一緒に行きなさい』と言われました。ここにいる六人の兄弟も一緒に来て、わたしたちはその人の家に入ったのです。
11:13彼は、自分の家に天使が立っているのを見たこと、また、その天使が、こう告げたことを話してくれました。『ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。
11:14あなたと家族の者すべてを救う言葉をあなたに話してくれる。』
11:15わたしが話しだすと、聖霊が最初わたしたちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです。
11:16そのとき、わたしは、『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける』と言っておられた主の言葉を思い出しました。
11:17こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」
11:18この言葉を聞いて人々は静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した。