「主は牧者です」 詩編23編

23:01【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
23:02主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
23:03魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく
わたしを正しい道に導かれる。
23:04死の陰の谷を行くときも
わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖
それがわたしを力づける。
23:05わたしを苦しめる者を前にしても
あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ
わたしの杯を溢れさせてくださる。
23:06命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り
生涯、そこにとどまるであろう。


 聖書には羊がしばしば出てきます。聖書ではこの羊が人間に喩えられました、そして羊飼いが神に喩えられているのです。
 今年は未(ひつじ)年。皆さんは「何年ですか」と聞けば、すぐに戌年、ネズミ年、未年などと言うでしょう。それは干支(えと)で年を答えているのです。若い人はどうか知りませんが、私達の年代にはそれが染みついているのです。
 初めに、普段は余り考えないこの干支について少し考え、信仰との関わりをみたいと思います。そもそも干支とは何か。
 これは元々中国から来た陰陽五行思想(紀元前200年頃)です。
 日本には仏教や儒教と同じ5世紀から6世紀に、暦などとともに伝わってきた思想だと言われている。簡単に説明しますと、
☆陰陽(いんよう)とは、森羅万象、宇宙のありとあらゆる事物をさまざまな観点から陰(いんマイナス)と陽(ようプラス)の二つのカテゴリに分類する思想。
☆五行とは万物は木・火・土・金・水の5種類の元素からなるという説。
 それが、占い、吉凶のおまじない、合格祈願の御礼、絵馬などとなって、信仰の対象になったり、それに捕らわれる、縛られることになっているのです。
 例えば、家を建てるとき、やれ方角が悪い、あるいは結婚の日取りで、この日は日が悪いなどと多くのことにがんじがらめに縛れてしまうことです。※ひのえうま
 こういった迷信にとらわれていたのは中国や日本だけではなかったようです。
 ガラテヤの信徒への手紙「40:09しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。 04:10あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。」

遙か二千年ほど昔の人々も特定の日や月、時節、年などに縛られていたのですね。キリストはそれらから解放するために、自由にするためにこられた。日も月も季節もすべては神が作られたもので、どの日が良い悪いということはない。
 日も月も年も季節も動物、植物も、万物は天地の創造者である神が造り、人間に与えられたものです。ですからこの神に顔を向けて、そのお言葉に従って生きる者にとっては何一つ悪い物はないのです。
 神が万物の創造者であって、真の天の父であることを知れば、知るほど、安心して神に自分の人生を委ね、従うことが出来るのです。自分一人で生きて行かなくても良いし、日や月や、方角を気にし、悩まなくて良いのです。
 
 聖書にはこの神と人間の関係を羊飼いと羊に喩えています。
 羊が聖書に最初に出てくるのは創世記4章です。アベルの献げ物。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。 04:03時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。 04:04アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、 04:05カインとその献げ物には目を留められなかった。)
 羊は他の家畜に比べて体も小さく、牙も、鋭い爪もなく弱い従順な動物です。だから、羊飼いはに羊を朝も昼も晩も一日中、大切に世話をしなければならない。一匹一匹名前をつけて、その名を呼んで青草のあるところ、水のあるところ、安全な場所につれて行って休ますのです。もし、迷い出ていなくまった場合には、少しでも早く見つけ出さないと死んでしまいます。自分一人では帰ることが出来ないからです。羊飼いは羊の名前を呼んで懸命に探し歩き、見つかったら大喜びで自分の肩に乗せて帰り、皆と共にその喜びを分かち合うのです。
(ルカ「4,あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。5,そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、6家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。7、言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」)
そのように羊飼いと羊は他の家畜以上に深い信頼の絆で結ばれていることから、聖書にはこれを神と人との関係に喩えられている。
 この詩編23篇も、神さまと人間の深い信頼関係を羊飼いと羊に喩えて詠んでいます。
 ここには驚くほど明るい、肯定的な、ポジティブな、前向きな、力強い姿が描写されています。
詩編23篇
01主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
02主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
03魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく
わたしを正しい道に導かれる。

 主に導かれている限り、自分は人生でよろめいて倒れることも、座り込んで動けなくなることもない、ということです。
 羊は平和な動物です。羊の毛で着物が作られ、それで人々は助かるのです。
 羊は人のために役に立つもの。今の自分の生活は、羊のように他の人を助ける、喜ばせる、そういう明るい、肯定的な前向きな生活である、というのです。
04死の陰の谷を行くときも
わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖
それがわたしを力づける。
05わたしを苦しめる者を前にしても
あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ
わたしの杯を溢れさせてくださる。

 そして、四.五節には、わたしは死の陰の谷というような所を歩いている時も、災いを恐れない。自分を苦しめ悩ます敵の前でもなお、ちょうど宴会を準備してもらって、頭に香水をかけてもらい、そして、豊かな祝福の杯を上げる人のように、自分は敵の前にいても命にあふれ、祝福にあふれて、喜びと力にあふれるというわけです。

 私達の普段の生活は決してこのようではありません。私達が自然におくる生活というのは、決してこういう生活ではありません。
 様々な災いを恐れ、占ってもらわなければ、安心出来ない、前に進むことも出来ないで、、よろめいて倒れてしまう、座り込んでしまう者です。少しばかり環境が良くて、明るい、幸福な気持ちになっても、何かの拍子に環境が変わると、とたんに明るい気持ちを失ってしまいます。人生は根本において暗い、寂しい、悲しいものであると言えるのではないでしょうか。
 ですから、この詩編23編というのは驚くべき感じ方、人生観であると言えます。明るく、肯定的で、前向きな、力強い生活は私達の自然の生活の中から決して出てきません。ある人はこれを、たとえて隕石のような外から地球に落ちてくるようなものだ、と言っています。

06命のある限り恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
主の家にわたしは帰り生涯、そこにとどまるであろう。

 隕石は天から啓示される神の恵みと慈しみです。それを一言で言えば神の真実です。この神の真実に気付き、出会うとき、私たちの考えを根本的に変えてしまうのです。神の真実こそイエス・キリストです。

































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