「安心安全の原点」 ルカによる福音書10章「25〜37節
 (神と、隣人を愛する)

 阪神大震災、原発事故から。4年が経ちました。
 そのなかで、色々なところで安心安全をモットーを掲げて復興に励んできた。日本人の真面目さ、律儀さ、黙々と耐え忍ぶ姿、世界中の人を驚かせている。、と伝えられ誇らしく思う反面、原発の対応を含めて日本社会もまた危ういものを感じる。私たちの周りでは安全、安心と言えない状況が増えているからです。安全安心の原点は、神と、隣人を愛すること、を今日の聖書から学んでいきましょう。

  ☆「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことが出来るか」
 彼はすでに答えを知っていた。その答えは、律法を守ることで永遠の命を受け継くことが出来ると考えていた。そこで安息日などの律法を破っているイエスがどういう答えをするか、試そうとしたのであった。

 ※ちなみに、ユダヤ人達は祈るとき額や腕に律法の大切な箇所をいれた経札をつけていた。額につける経札(一辺が3pの四角の箱、ファリサイ人:律法学者達はよく見えるように大きくしていた。(マタイ23:05そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。)の中身は出エジプト記 13:01主はモーセに仰せになった。 13:02「すべての初子を聖別してわたしにささげよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、わたしのものである。」 13:03モーセは民に言った。「あなたたちは、奴隷の家、エジプトから出たこの日を記念しなさい。主が力強い御手をもって、あなたたちをそこから導き出されたからである。酵母入りのパンを食べてはならない。 13:04あなたたちはアビブの月のこの日に出発する。 13:05主が、あなたに与えると先祖に誓われた乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ヒビ人、エブス人の土地にあなたを導き入れられるとき、あなたはこの月にこの儀式を行わねばならない。 13:06七日の間、酵母を入れないパンを食べねばならない。七日目には主のための祭りをする。 13:07酵母を入れないパンを七日の間食べる。あなたのもとに酵母入りのパンがあってはならないし、あなたの領土のどこにも酵母があってはならない。 13:08あなたはこの日、自分の子供に告げなければならない。『これは、わたしがエジプトから出たとき、主がわたしのために行われたことのゆえである』と。 13:09あなたは、この言葉を自分の腕と額に付けて記憶のしるしとし、主の教えを口ずさまねばならない。主が力強い御手をもって、あなたをエジプトから導き出されたからである。 13:10あなたはこの掟を毎年定められたときに守らねばならない。

出エジプト記13:11主があなたと先祖に誓われたとおり、カナン人の土地にあなたを導き入れ、それをあなたに与えられるとき、 13:12初めに胎を開くものはすべて、主にささげなければならない。あなたの家畜の初子のうち、雄はすべて主のものである。 13:13ただし、ろばの初子の場合はすべて、小羊をもって贖わねばならない。もし、贖わない場合は、その首を折らねばならない。あなたの初子のうち、男の子の場合はすべて、贖わねばならない。 13:14将来、あなたの子供が、『これにはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『主は、力強い御手をもって我々を奴隷の家、エジプトから導き出された。 13:15ファラオがかたくなで、我々を去らせなかったため、主はエジプトの国中の初子を、人の初子から家畜の初子まで、ことごとく撃たれた。それゆえわたしは、初めに胎を開く雄をすべて主に犠牲としてささげ、また、自分の息子のうち初子は、必ず贖うのである。』 13:16あなたはこの言葉を腕に付けてしるしとし、額に付けて覚えとしなさい。主が力強い御手をもって、我々をエジプトから導き出されたからである。」

申命記 06:04聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。 06:05あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 06:06今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、 06:07子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。 06:08更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、 06:09あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。
この聖書箇所が記されている羊皮紙を入れていた。
 この律法の専門家は「永遠の命」は神の掟である律法を守ることによっていただける、自分はそれを守り、行っており、だからこの命を頂けると思っていた。

26節、イエス様は彼の考えをよく知っておられ、律法にはなんと書いているか、どのようにろれを受け取っているか、と質問した。
    イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、


27節、彼が熱心な律法の専門家でした。その答えは的確であった。ただ、それは観念的な、つまり頭だけのことになっていて、絵に描いた餅であった
    27彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』    とあります。
28節、しかし、この人はそう言われてドキッとした。動揺した。うろたえ不安を覚えた。彼は本来真面目な人で、若い時は真剣に律法を学び誠実に実行しようとしていたであろう(パウロ)。しかし、やがて地位と富を手にするにしたがって、他の同僚と同じように形式的になり、それで律法を守っている、行っていると自分に思い込ませていた。しかし、やり込めるはずのイエスが言われた一言が彼の心にぐさっと突き刺さった。
  「それを実行しなさい。」
 律法はそれを実行して初めて、命が得られるのである。形式的に、呪文のように唱えるだけでは駄目。
   イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
29節、律法の専門家に「律法を実行しなさい。」とは何事か。私を見れば分かるだろう。経札の大きいのをけて祈るし、律法は誰よりのよく守っている事は歴然としてしている・・・。彼は一抹の不安があった。

※「自分を正当化する」
 「正当化する」このことは、自分が正しいと思うことを主張して、自分が置かれている立場を守るということです。あるいは、人に悪いところを見られないように、よく見せようとすることです。この律法の専門家は、隣人を愛するということの難しさを、よく知っていたのではないかと思います。
  彼は「隣人とは誰ですか」と言った。
この律法の専門家の「隣人」の範囲は自分に関わりのある人が、せいぜい律法を守っているユダヤ人であったでしょう。どこまでが隣人なのか、隣人か。律法学者の間でも色々と考えた方違って、線引きが出来なかった。

   ☆良きサマリヤ人
10:30〜37 エルサレムからエリコの町までのルートはほとんど草木が生えていない岩がゴツゴツ山の中を通っている曲がりくねった急な坂道です。ここは30kmの間に千mも下っていく道で、強盗もよく出ていたそうです。祭司やレビ人はエルサレムの神殿で仕事を終えて、彼らの割り当てられた町であるエリコに帰るのは夕方であった。強盗はそのような夕暮れの、旅を急ぐ金持ちらしい商人を狙って、半殺しにしたのです。30、「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
 しばらくして、祭司やレビ人がそこを通りかかったが、見て見ぬふりをして避けて通り過ごしていった。31、ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。

32、同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。  ところが、日ごろ軽蔑し、敵視していたサマリヤ人が、傷付いた旅人、多分ユダヤ人であろうこの人を見て「憐れに思い」助けたのです。自分の危険や、犠牲を物ともせずに真心から世話をしたのです。同胞の祭司やレビ人が避けて通ったのに、日頃軽蔑されていたサマリア人が助けることなど、普通では考えられないことです。これは「汝の敵を愛せよ」と同じです。
33、ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い
34、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
 このサマリア人が誰であるか。多くの人々がこのサマリア人こそが、イエス様であると理解しています。そうすると、このサマリア人がなぜ、傷付いた人を助けたのか。33節で「その人を見て憐れに思った」からであると理由を語っています。この「憐れに思う」という言葉は、はらわた、内蔵という言葉が使われており、「はらわたが痛む」という意味、自分のお腹が痛むような、あるいは胸が張り裂けそうに痛むように憐れむということです。それだからこそ、ただ、サマリア人は、その傷付いた人を見て、思わず胸が痛くなって、、立ち止まったにすぎないのです。
  ※ルカ15:20放蕩息子のたとえでも使われている言葉です。51:20そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。

 イエス様はなぜ、この世界に来て下さったのか。それは、私た人間が傷付いた姿を見て、神様が胸が張り裂けそうに心を痛められたからではないでしょうか。私たちが、神様から離れている思いや自分勝手に生きて苦しんでいる姿を見て憐れに思ったからでした。ただ、それだけのことで、イエス様が十字架について死なれたのです。理屈ではないのです。しかし、このことは、サマリヤ人が傷付いた人の隣人になって愛を注いで下さったと同じように、私たちに深く関わって下さり、愛して下さっているということなのです。
 イエス様は、私たちに神様を愛することと、自分のように隣人を愛することの大切を教えられました。しかし、私たちは、罪の下にあって生まれながら、神様を憎み、隣人を憎みような人間なのです。また、隣人に関心を持たないものです。また、自分の都合で隣人を限定し、生きています。このたとえ話はそのことを、私たちに気づかせてくださっているのです。そのために、イエス様自身が、命までかけて、私たちを深く愛して隣人になってくださったのです。だからこそ、私たちも、人々の隣人になることができるのです。イエス様が、私たちを愛して下さっているからこそ、私たちも神様を愛することができるし、隣人も愛していくことができるのです。


ルカ29〜37良きサマリヤ人
29しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った
30、イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
31、ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。

32、同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
33、ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い
34、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
35、そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』 36、さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
37、律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」27、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」