「主が共におられる」 創世記39章

 今日は旧約聖書創世記に出てくるヨセフという人物を通して、「神が共におられる」ということはどういうことかを見ていきたいと思います。
 ヨセフはイスラエルの父祖アブラハム、イサク、ヤコブと続く信仰の系譜の中で、ヤコブの息子で、12人の中11番目に生まれた子どもである。このヨセフは数奇な運命をたどりエジプトの宰相(総理大臣)にまでなった人物です。その生涯は創世記37〜50章にかけて詳しくするされています。

39:01ヨセフはエジプトに連れて来られた。ヨセフをエジプトへ連れて来たイシュマエル人の手から彼を買い取ったのは、ファラオの宮廷の役人で、侍従長のエジプト人ポティファルであった。
 何の不自由もない楽しい生活が一変して、人生が真っ暗になってしまったのです。ヨセフにとっては悪夢のような、先の見えない辛い奴隷の生活が始まったのです。
 このヨセフの悲しみ、嘆きを読んだ詩編があります。
 「奴隷として売られたヨセフ。主は、人びとが彼を卑しめて足枷をはめ、首に鉄の枷をはめることをゆされた」(105:8)
 何と惨めな姿でしょうか。

 ところが、聖書には不思議なことが記されています。(39:2-4)
39:02主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。彼はエジプト人の主人の家にいた。 39:03主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は、 39:04ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理をゆだね、財産をすべて彼の手に任せた。
 このように、異国において辛い奴隷生活に投げこまれたヨセフの生活に何故ですか、と叫びたくなるような絶望的な状況であるにもかかわらず、神がヨセフと共におられたのだと聖書は強調しているのです。

 私たちの人生にも同じことが言えます。今年は私も含めて、体調を崩して入院、自宅療養を余儀なくされた方々が多くおられました。突然落とし穴に投げこまれるような経験です。悲観的になります。自信を失います。これからどうなるのだろうかと不安になります。私たちは一寸先が分かりません。結果がどうなるのか分からない。「神様何故ですか。このようなことがいつまで続くのですか。」と祈りました。それにもかかわらず、神様は私たちと共に、おられるのだ、と言われるのです。

 確かに絶望的な状況の中で、奴隷として仕事を忠実に果たし、神はヨセフが主人の信頼を勝ち得ることが出来るようにして下さった。(39:05 主人が家の管理やすべての財産をヨセフに任せてから、主はヨセフのゆえにそのエジプト人の家を祝福された。主の祝福は、家の中にも農地にも、すべての財産に及んだ。)
 ところがです、またもやヨセフの身にとんでもないことが降りかかってくるのです。何があったのか。(39::07これらのことの後で、主人の妻はヨセフに目を注ぎながら言った。「わたしの床に入りなさい。」 39:08しかし、ヨセフは拒んで、主人の妻に言った。「ご存じのように、御主人はわたしを側に置き、家の中のことには一切気をお遣いになりません。財産もすべてわたしの手にゆだねてくださいました。 39:09この家では、わたしの上に立つ者はいませんから、わたしの意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。あなたは御主人の妻ですから。わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう。)
 何とご主人ポテファルの妻がヨセフを誘惑してきたのです。ヨセフは誠実に断りました。ヨセフはまだ17歳でこの家の奴隷となり、忠実に仕え、主人は家の全てをまかせるまでに信頼してくれるようになりました。ここに至るまでどれだけの年数が経っていたでしょうか。ヨセフは顔も美しく、体つきもすぐれていた立派な青年になっていたことでしょう。

 ※夫婦の問題
 ポテファルの妻は王の宦官の妻です。立派な邸宅、高価な家具調度品、多くの召使い、何不自由なく贅沢な生活をしていたことでしょう。しかし、人はそれだけでは満たすことのできないものを持っています。
 彼女がヨセフを誘惑したのは夫への不満があったのではないだろうか。夫ポテファルは侍従長として、王のそばで落ち度なく仕事を果たさなければならない大きな責任がある訳ですから、毎日神経をすり減らしていたでしょうか。家のことは全てヨセフに任せ、遅くまで仕事をして、疲れ果てて家に帰り、ゆっくり妻と過ごす時間はなかったのではないだろうか。もし私たちがそのような中におかれたらどうするだろうか。
 「愛は全てを完全に結ぶ帯である」(コロサイ3:14)
 「わたしがあなた方を愛したように互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15:12)

 一方、ヨセフにおいてもこの誘惑は激しいものがあったにちがいありません。20歳前後の若者が性の誘惑をどのようにして乗り越えることが出来るでしょうか。ただヨセフの中には主人ポテファルの信頼を裏切ることは出来ない、という忠誠心と、さらに大きかったのは、姦淫の犯してはならない、という神の戒めの御言葉でした。
 「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物はわたしたちの主キリスト・イエスによる永遠のいんちです。」(ローマ6:23)

 
ポテファルの妻はヨセフを誘惑し続けました。
39:10彼女は毎日ヨセフに言い寄ったが、ヨセフは耳を貸さず、彼女の傍らに寝ることも、共にいることもしなかった。
 悪魔のささはき「ちょっとだけ、一度だけ、まだ先がある、誰もがやっていることだから」
 ヨセフは断固として拒否したのです。しっかりと善悪を見極めることが大切でです。又、自分の弱さを知り、罪の誘惑があるところには近づかない、遠ざけることが一番です。

 その結果づなったのでしょうか。(39: 39:11こうして、ある日、ヨセフが仕事をしようと家に入ると、家の者が一人も家の中にいなかったので、 39:12彼女はヨセフの着物をつかんで言った。「わたしの床に入りなさい。」ヨセフは着物を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。 39:13着物を彼女の手に残したまま、ヨセフが外へ逃げたのを見ると、 39:14彼女は家の者たちを呼び寄せて言った。「見てごらん。ヘブライ人などをわたしたちの所に連れて来たから、わたしたちはいたずらをされる。彼がわたしの所に来て、わたしと寝ようとしたから、大声で叫びました。 39:15わたしが大声をあげて叫んだのを聞いて、わたしの傍らに着物を残したまま外へ逃げて行きました。」 39:16彼女は、主人が家に帰って来るまで、その着物を傍らに置いていた。 39:17そして、主人に同じことを語った。「あなたがわたしたちの所に連れて来た、あのヘブライ人の奴隷はわたしの所に来て、いたずらをしようとしたのです。 39:18わたしが大声をあげて叫んだものですから、着物をわたしの傍らに残したまま、外へ逃げて行きました。」 39:19「あなたの奴隷がわたしにこんなことをしたのです」と訴える妻の言葉を聞いて、主人は怒り、 39:20ヨセフを捕らえて、王の囚人をつなぐ監獄に入れた。ヨセフはこうして、監獄にいた。)
 ヨセフはまたもや落とし穴に投げこまれるのです。それが、ヨセフ自身の落ち度なら仕方がありませんが、そうではなかったのです。彼は立派に誘惑をはねのけたのです。それでも、イヤそうしたことで彼は今度は奴隷でなく、囚人として手足を鎖につながれる羽目になったのです。
 ヨセフは悔しかったでしょう。やっとここまで積み上げてきた信頼が、一瞬のうちにガラガラと崩れ去ったのですから。しかし、ヨセフは何の弁解もしなかった。

ヨセフはこうして、監獄にいた。 39:21しかし、主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれたので、 39:22監守長は監獄にいる囚人を皆、ヨセフの手にゆだね、獄中の人のすることはすべてヨセフが取りしきるようになった。 39:23監守長は、ヨセフの手にゆだねたことには、一切目を配らなくてもよかった。主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである。
 ここでも「主はヨセフと共におられた」とありますが、真面目に誠実に仕えたにもかかわらず、ヨセフの人生は奴隷から囚人へと転落の一途をたどっていきます。しかし、信じられないことですが、ここでもヨセフは看守長の信頼を得ることが出来たのです。主が共におられたからだ、と繰り返し記されている。確かに人間には不可能なことです。

[結論]
 結局、ヨセフは多くの苦難を繰り返し受けたが、神がヨセフと共におられたので、罪を犯すことがなかった。ついに、彼はエジプトの宰相になり、父と兄たち家族全員を救うこととなった。ヨセフはイエス・キリストを象徴し、指し示しているのです。イエス様はインマヌエルと呼ばれ、「神は私たちと共にいます」、という意味です。神は私たちと共にいまして根本の土台のところをしっかりと支えて、導いて下さっているのです。