「キリストが来られた目的」 マルコによる福音書 10章45節

 クリスマス、イエス・キリストがこの世に来られた日。キリストはこの世を救うために来られた、世界の救い、平和の主というが、二千年経った今も世界は争いが絶えない。世界は良くなっているのだろうか。
 日本にいると色々と問題は多いが、何とか平和を維持していると思う。しかし、世界はシリア内戦やISのテロ、国と国の権力闘争、民族間の争い、貧困等々。何とかかろうじて戦争を回避しているが、薄氷を踏む思いがする。
 しかし、こうも考えられるのではないだろうか。もし、イエス・キリストが来ておられなかったとしたら、、この世界は、ノアの方舟の時やソドムの時のように歯止めのきかない邪悪な、淫乱な世に墜落し、すでに滅びていたのではなかろうか。
 洪水で滅んでいったノアの時代は「地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っていた。」また、天からの火で滅されたソドムについては、「主は言われた、ソドムとゴモラの罪は非常に重い。」罪が極限になり、もう手の施しようがない状態であった。

 もし、現代でも、汝の敵を愛し、迫害する者のために祈れ、と言われたキリストがおられなかったら、又言葉だけでなく、自分を迫害する者たちのみならず、全人類の罪を負って十字架に付いたイエス・キリストの犠牲が無かったなら、まらこのキリストを信じる人たちの心に隣人愛の火が点火され、互いに憎み合い、殺し合い、復讐し合うことを止め、真の平和を実現しようとする人々が起こされて来なかったら、ノアやソドムと同じ姿であっただろう。

 イエス・キリストは二千年前にユダヤの片田舎ベツレヘムの家畜小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされた。何故そのような姿でこの世に来られたか、その目的を聖書の言葉から見ていきたいと思います。
 イエス・キリストは御自分が来られた目的を述べていますが、四つの福音書から代表的なものを一つずつ抜粋しました。
@マタイによる福音書
わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
Aルカによる福音書
19:10「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」
Bヨハネに夜福音書
「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
Cマルコによる福音書
10:45人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。

 旧約聖書イザヤ書には人々の病を負うキリストのことをこう預言している。
イザヤ書53:2・・・「彼には見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。53:3彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。」

 イエス・キリストは自らのことを預言されていた通りに、仕えるために来た。最も貧しくなられた。最も小さくなられた。惨めな姿になられた。彼は十字架につけられ人々からののしられ、軽蔑され、捨てられた。それは全ての人の罪を負い、罪人として自らの命を捧げ、全ての人を救うためであった。

ルカによる福音書
 2:06ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、02:07初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

02:11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。02:12あなたがたは、布にっくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

 イエス・キリストは幼子として飼い葉桶に寝かされたのは、まさに仕える姿、奴隷の姿を象徴するものであった。
 旧約聖書イザヤ書53章には続いて次のように預言しています。
イザヤ書
53:05彼(キリスト)が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎(トガ)(罰されるべき行為。罪。)のためであった。彼は受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちは癒された(身代金)
53:06わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方向に向かって行った(罪人、失われた者)。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた(身代金)
53:07苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。
53:11彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。


 私たちの根本の問題は何か
 地球を我が物顔のように闊歩する人間の傲慢さ。万物の創造者なる神を無視し、神を神としてあがめず、礼拝しない姿。神への不信仰。問題は自分と神との関係がどうかである。もし、神との関係が途絶えていたり、いい加減なものになっていてとするなら、これを何よりも重大なこととして正さなくてはなりません。それは罪だからです。

 神の和解の方法は
@自分は間違った生き方をしていた。神をあがめず、神に背を向けて生きてきた。
A罪を悔い改め、神を信じ、神と共に生きていこう。しかし、自分には自信も力もない。又、罪の中に戻ってしまう不安がある。
B御子イエス・キリストの十字架による身代わりの罪の償いを信じ、又、キリストが死から復活し、信じる者と共にいて力を下さることを信じる。
Cどうか私と共にいて神の子としての助けてください、と祈る。
 このように神への信仰を告白する者には神の子となる資格を与えられるのです。これがキリストが来られた目的であった。
 
 ここに真の赦しがあり、平和があり、根本の解決があるのです。