「キリストにある者」 ローマの信徒への手紙 8章1~11節

 
今回の中国訪問で、今まで持っていた先入観(反日、抗日)がかなり覆された。短期間ですので本当のところ(本音の部分)は分かっていないものも事実だが、それでも外から聞くのと、内から見るのとは大きな違いがあった。タクシーの前の座席の前面には、熱愛祖国、孝敬父母、关(ショウ)愛他人。民主、平等、法治、友善等の言葉を書いたシールが張ってあった。
 また、娘の大学の担当教授が忙しい時間を割いて、昼ご飯のためレストランに招待してくれました。教授は娘に孔子についての研究論文を課している。大学の中には孔子の像が建っている。孔子の思想は儒教の論語に記されているが、父母を敬い、目上の人を尊重するなどで知られている。その教えの本質/徳・仁・礼・義・中。教授は中国で失われているものが、日本人の心に息づいていると、言っていた。日本人の日本人たるゆえんアイデンティティは実は孔子の教え、儒教に深く影響されている、と言える。教授はさらにこういった、自分は日中友好のために学生を世話している、と。わたしは中国人を反日、拝金主義でお金の亡者のような人と思ってきたが、こういったことにふれ考え方がかわり、親近感を覚えた。
 
 毛沢東
 第二次世界大戦が終わり中国は内戦状態の中で、封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しようという思想を掲げて1949年共産国が建国され、毛沢東は初代の国家主席となった。共産主義を推し進めた。しかし、その17年後の1966年、毛沢東は「資産階級」が共産党内部に侵入したと警告し、若者らに権力を奪取するように呼びかけた。毛沢東の呼びかけに応じ、急進的な若者数百万人が「紅衛兵」となり、伝統文化の破壊、知識人や官僚に対する弾圧は熾烈を極め、激烈な権力闘争に発展し、多数の犠牲者を生み出した。いわゆる文化革命である。これは毛沢東が権力を回復する権力闘争であったと言われている。
 【毛沢東語録】
 「無抵抗は我々には命取りになる。我々の目標は敵に抵抗させないことだ」
 「共産主義は愛にあらず、共産主義は敵を叩き潰すためのハンマーなり」

 孔子の思想、共産主義、人間のあるべき真実な姿を追求しているものであろうが、限界がある。それは人間の罪である。「欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して師を生むのである」(ヤコブの手紙01:15そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。 )
07:25わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法(ノモス)に仕えていますが、肉では罪の法則(ノモス)に仕えているのです。
 (ノモス)①法(一般)、律法、おきて、法令、法則
      ②行動を律し、また行動へと駆り立てる内部の力、原理、法則
      ③律法、モーセ五章・・・・・・(オ・ノモス)
  神のノモスは、神と人への愛へと駆り立てる内部の力、原理
  肉のノモスは、衣食住への欲望へと駆り立てる  〃
 肉は罪ではないが、状況によっては罪へと向かいやすい。

 この二つのはざまで葛藤しているのがキリストを信じる者の現実である。あるときは神のノモスに従い、あるときは罪のノモスを覆って余りがあるほど高く、深く、広く、大きく、強いのである。


08:01従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。
 従って、このうようなわけで、今や、イエス・キリストに結ばれている者は、肉では罪の法則に仕えていても、罪に定められることはない。
 罪の故に死に至ることがない。普段、肉の思いの中で葛藤し、信仰に徹底できないもどかしさ、矛盾を覚えながら、それでも罪の力はもうその人を支配することは出来ない、と断言している。

 では、イエス・キリストに結ばれていると訳されている言葉はエン・クリストーである。英語ではIn Christ。直訳ではキリストの中に、キリストの内にだが、多くの場合「キリストにある」と訳される。
 口語訳ではこの箇所を次のように訳している。
 「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることはない。」

 エン・クリストーの意味はどういうことなのだろうか。
 キリストにある者とは、単にクリスチャンになる手続き(洗礼)を済ませた人でも、肉の思いに悩まされなくなったり、葛藤しなくなった完全な信者でもない。イエス・キリストを救い主なる神と信じる人、信じて信頼し続ける人である。その人は決して罪に定められることはない。なぜなら、たとえ罪を犯したとしても、キリストにあるなら、キリストが私たちの罪を肩代わりしてくれるからだ。キリストへの信仰によって、キリストと一体となり、私たちの罪はキリストのものとなり、キリストの義と愛は私たちのものとなるという有り難い肩代わりが起こるのである。

08:02キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。
 ここに自分の力(人間の力)ではどうしようもなかった罪から解放の道が開かれたのである。信仰による肩代わり。

08:03肉の弱さのために律法(戒め、貪欲の禁止)がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪(貪欲)を取り除くために御子を罪深い肉(人間)と同じ姿でこの世に送り、その肉(キリストのお体)において罪を罪として処断されたのです(キリストの十字架)。 08:04それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求(貪欲禁止、神と隣人を愛する)が満たされるためでした。 08:05肉に従って歩む者は、肉に属すること(衣食住、何を食べようか、何を着ようか、食欲、物欲、性欲)を考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを(神と人を愛すること)考えます。

08:06肉の思い(これの行き着くところ:欲望は欲望を生み、きりがない。)は死であり(つまり欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生む=罪の法則)、霊の思いは命と平和であります。 08:07なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。 08:08肉の支配下(欲望を王とする、第一とする、欲望の虜)にある者は、神に喜ばれるはずがありません。
08:09神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下
(聖霊、キリストの霊を王とする第一とする)にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。 08:10キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義(キリストを信じる義、正しさ、清さ)によって命となっています(生きている)。 08:11もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。