「肉に従う、霊に従うとは」 ローマの信徒への手紙8章1〜11節

 今日の聖書のところは、要約すると「肉に従って歩む者と霊に従って歩む者を対照的に記し、霊に従って歩む者の恵みを述べています。
 私たちは毎日何を考え、何を求め、何に従って生きているか。毎日の生活に追われている。その根底にある土台は何か、ということです。

1.「肉のこと」
 肉に従うの「肉」とは聖書では「人間の欲望」と共に「人間の力」を言っています。
 @人間の欲望
 まず、富のこと、お金儲けのことでしょう、それから衣食住のこと、何を食べ何を飲もうか、何を着ようか、さらに何をして遊ぼうか、楽しもうかなど。
 これは生きている限り人間の肉の要求として当然わいてくるものです。これらの肉の欲求が悪いものでも、直接罪につながっているのでもありません。
 自分の力でコントロール出来なくなるとき、罪へとつながっていく。肉の欲求はそういった性質を持っている、これが肉(罪)の法則である、というのです。
 肉に従うとき、何が生じたか。
 富が増し、衣食住に関する生活が向上すると、貧困がなくなり、豊かになって、それに比例して、平和がもたらされるかと思っていたが、家庭内は夫婦親子の不和がが増えた。それは社会へと繁栄され、いじめ、差別、比較、ねたみ、ひがみ、恨み、争いへと発展していった。

 A人間の力
 また、肉とは人間の欲望といいましたが、自分の力、能力と言ってもいいのです。肉に従って歩むとは自分の力、能力に頼って生きることです。肉の力、自分の力、能力を増して、懸命に努力していけば出来ないことはない、とよく言われます。努力の大切さは誰もが認めるところであるが、それと共に個人の才能や能力の違いがあることも事実であります。そのような現実の中で、弱肉強食だけの法則で生きなければならないとしたら弱者は何と惨めな存在ではないでしょうか。
 弱者にも神は確かに生きる道を備えたもうたのです。あの使徒パウロにして「自分は貪欲に打ち勝つ力がない。コントロールできない。善をしようとする思いはあるが、わたしにはその力がなく、返って逆のことをしている。わたしは何という惨めな人間なのだろう」と告白している。
 いうなれば、わたしたちは肉の欲望の前には皆弱者であると言えるのです。罪を犯す弱い存在であるということです。人間の歴史を見ても結論づけて良いのです。
 パウロは肉によって、つまり自分の力、能力や熱心さで法律を行おう、罪に打ち勝とう、コントロールしようと必死に頑張ってきたが、自分の無力さを思い知り、ついにギブアップ、キリストを信じるものとなった。十字架のキリストを自分の罪の贖い主、救い主として仰いだのです。こうして彼は今までの肉に従って歩む生き方から、キリストにある者として、霊に従って歩む者とされたのです。

 2.「霊のこと」
 霊とは聖霊を言います。聖霊は神の霊、キリストの霊でもあります。これに従って歩むということは神への信仰、礼拝、人への愛、聖書の御言葉への従順です。最初の一節のところは、キリスト・イエスに結ばれる、という言葉はエン・クリスト「キリストにある者」との言葉でキリストの中に、内にという意味です。2節にはキリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が罪の法則からあなたを開放した、とあるように、キリストにある者は霊に従って歩んでいる者である。キリストを信じる信仰によって、その人の中には神の霊が働いて命と平和へと導かれている、これが霊の法則であるというのです。自分の力で頑張らない。聖霊の力を信じ、寄り頼んでいく。そこから生じるものは何か。有り余る富の豊かさではなく、質素であるが不足することのない豊かさである。

 しかし、これによって肉の欲望がなくなるわけではありません。今まで通り、相変わらず欲望はあり続けます。しかし、自分の中は肉の欲望を最も大切なものとして追求し、自分の力、能力によってコントロールしようとする生き方から、キリストを信じ、キリストにあって、霊に従って生きるように、その力の源が変わるようになものです。
 肉と罪の法則によって相変わらず罪への誘惑はあるが、神の霊の法則はそれを遙かに超えて働き、命へと導いておられるのです。

08:01従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者(エン・クリストー、キリストにある者)は、罪に定められることはありません。
08:02キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。
08:03肉の弱
さ(繰り返し犯す罪)のために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです(イエス・キリストの十字架)
08:04それは、肉
(人間の欲や力)ではなく霊(神の力)に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求(罪の贖い)が満たされるためでした。
08:05肉に従って歩む者は、肉に属すること
(神への信仰と人への愛)を考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。
08:06肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。
08:07なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。
08:08肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。
08:09神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。
08:10キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。
08:11もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。


 先々週、飛行機に乗って中国まで行ってきました。
 キリストにある者は天国行きの神の飛行機に乗っているようなものです。機長はキリストです。神を信じ、キリストを信じ、霊、聖霊に従って歩むときに、色々な不安はあっても必ず目的地、天の御国へと連れて行ってくれるのです。