「一粒の麦、地に落ちて死なねば」 ヨハネによる福音書12章20〜26節6

12:20さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。
12:21彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。
12:22フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。
12:23イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。
12:24はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。

12:25自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
12:26わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

 ユダヤ人の三大祭り:過ぎ越の祭り(出エジプトの記念)、五旬祭(ペンテコステ、小麦の収穫)、仮庵の祭り(秋のブドウの収穫)。

 時は過ぎ越の祭りの時です。ユダヤ人にとっては過ぎ越の祭りは三大祭りの中でも最も重要な祭りであった。一週間祝われた。この祭りに遠くからはるばるギリシャ人が礼拝のためにエルサレム神殿に来ていた。彼らは祭り見物に来ていたのではない。異邦人でありながら、主なる神を信じ、ユダヤ教の祭儀に参加していた半改宗者(割礼をうけていない)であった。彼らは熱心な求道者であった。
 このギリシャ人達はイエス様のもとに来て、何をたずね、何を求めたのであろうか
 @哲学的な疑問であろか。「自分とは一体何だろう?」
 A愛する者を病気か事故で失い、「人は死んだら何処に行くのだろうか。どこから来て何処に行くのか。」生と死の意味か。
 これらの問題は人類共通の問題でもある。
 彼らはギリシャ哲学では解決することが出来なかった問題をユダヤ教の神に見いだそうとしたのでしょう。それでもなお釈然としないので、死人をも生き返らせたイエスの噂を聞き、是非とも会いたいと思って来たのでしょう。

12:23イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。
 「人の子」とはイエス様自身です。「人の子」とはメシアを暗示し、イエス様もその意味で使っています。 
 では、「人の子が栄光を受ける時が来た」すなわち、メシア、キリストが受ける栄光とは何か。それはメシアが「全人類の救い主」となることです。
 ユダヤ人だけでなく、ギリシャ人も、全人類から救い主とあがめられることです。その栄光を受ける時が来た、と宣言しているのです。
 イエス様はメシアの栄光がどういうものなのかを「はっきり言っておく」と強い口調で言った。原語では、「アーメン、アーメン」と二回言っている。そのあとで、イエス様が言った言葉が24節「一粒の麦は・・・・・」である。
 これはイエス様が十字架にかかって死なれ、復活することを言っています。このことによってユダヤ人はじめギリシャ人、異邦人にも福音が伝わり。全世界の人々を救うことになるのです。
 キリストの死は多くの人に命を与える源となる。これは一粒の麦が地に落ちて、しわくちゃな皮だけになって死んでしまったかのようにみえながら、実はその中の命が発育して多くの実を結ぶことに似ている。
 このように言って、御自分の死がユダヤ人だけでなくギリシャ人など全ての人を救うために、自分の命を与える、贖いの死であることを言われたのである。これがメシアの栄光である。人間の考えの及びも付かない神の深い人類救済のご計画であった。

 ギリシャ人がイエス様の下に来たのが過ぎ越の祭りの時であった。もしその日が過ぎ越の食事の当日であったなら、最後の晩餐の数時間前と言うことになる。すなわちそれは、イエス様の十字架の一日前の日ということになります。

12:25自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。

 「自分の命を愛する」とは自分の命が全て、何よりも大切なものと思って執着すること。その人は自分の命を失う。
 反対に、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
 「自分の命を憎む」、とういうことなのか。憎むとは愛するの反対で、自分の命が全て、何よりも大切なものと思わない。もっと、大切なものがあると思う。さらに大切なものとは何か。
 ある人はこういった
 「いのちはいのちによって生まれるのだから、私達一人一人のいのちも、その源は根源的、普遍的な永遠のいのちである。といわなければなりません。これをいのちのいのちと言っても良いわけですが勿論それを見ることもつかまえることもできません。」
 
いのちのいのち、いのちの源、永遠のいのちである神に根ざすとき、そのいのちにつながるとき、私たちは自分がどこから来て何処に行くのかを知るのです。自分が宇宙の中の砂粒のようなちっぽけな意味のない、訳の分からない存在ではなく、神に愛されているかけがえのない存在であることを知るのです。それは、神の御子イエス様が一粒の麦となってそのいのちを十字架で捨て、私たちが永遠の命につながり生きるようにしてくださった。神は御子イエス様のいのちを犠牲にするほど罪多き、小さな私たちを大切な大切な、愛する存在として見てくださっているのです。

 私たちも一粒の麦となる
 私たちもやがてこの世のいのちが終わるときがくる。その時、出来たら感謝して終えることが出来ればと願いますが、地に落ちた麦のように、しわくちゃの皮だけのようになるかもしれない。認知症になって何も分からなく、痛い痛いとわめくかもしれない。それでもよい。
 大切なことはこの世のおいて可能な限り、自分のいのちが全てではない、ということ、いのちのいのちにつながっていくことを最も大切なこととして生きることが肝要です。
 15節の「ブドウの木と枝」のたとえでイエス様がこう言っています。
 「15:04わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。 ・・・・・・・わたしの愛にとどまりなさい。 ・・・・・・・・」
12:26わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」