「幸いな人」 詩編1編

 詩編は元々「讃美」という意味だそうです。全部で150編、その中には神を喜びたたえる讃美があり、感謝があり、赤裸々に胸の内の嘆きを訴える祈りもある。
 詩の多くは韻文で一定の形式とリズムを持つ。
 日本のイロハカルタ( 犬も歩けば棒に当たる。 論より証拠)のように韻を踏んでいる。詩編119編も初めの文章の頭文字は「アーフレ」ではじまり、次の文章の頭文字は「ベス」というように、アルファベット順に始まっている。先ほども交読文で詩編46編を読みましたが、リズム感がある。

 では詩編1編を見ていきましょう。ここは極めて単純に、神に従う者と神に逆らう者を対照的に歌っています。すなわち、神に従う正しい者は栄え、神に逆らう罪ある者は滅びる、と、これは言い古され、語り尽くされたことで、別段新しい真理でも、珍しい教えでもありません。しかし、これはいくら強調されても強調しすぎることのない、永遠不滅の真理です。だから、詩編の作者はこれを150編の一番はじめに載せたのです。
 旧約聖書はイスラエルの民の姿、歴史を通して、そのことを明確に告げています。申命記11:26「見よ、あなた達の前に祝福と呪いを置く。」

 1〜3節
 「幸い」とは何か。
 子供が増え、財産が増し、健康に過ごし、勉強も、スポーツもうまくいくことだろうか。
  聖書に出て来る「幸い
 @詩編2:12  いかに幸いなことか 主を避けどころとするひとはすべて。
     32:1   いかに幸いなことでしょう 背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。
     32:2   いかに幸いなことでしょう 主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。

 Aイザヤ30:18
  「お前たちは、立ち返って/静かにしているならば救われる。安らかに信頼しているこ そこにこそ力がある」それゆえ、主は恵を与えようとして/あなたたちを待ち、/それゆえ、主は憐れみを与えようとして/立ち上がられる。まこと、主は正義の神。なんと 幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。

 神に助けを、赦しを求め、どこまでも神に頼む人、神を待ち望む人、その人が「幸い」だ、どいうことです。
 
 1節いかに幸いなことか神に逆らう者の計らいに従って歩まず罪ある者の道にとどまらず傲慢な者と共に座らず
 神に逆らう者、罪ある者、傲慢な者、この三つは神に対して正しく生きようとしない者を三様のの言葉で描写しています。罪という言葉には「的外れ」という意味がある。真実(まこと)の的である神からそれた生き方ということです真実(まこと)の的である
神以外のものに向かって生きるところに不幸があるというのが、聖書全体のメッセージである。そういう生き方をしない人は幸いである。その的外れな道に、歩まず、とどまらず、座らず、とこれも三様の言葉で描写し、そうしないようにと強調しています。

  2節 主の教えを愛しその教えを昼も夜も口ずさむ人。
 
主の教えを愛する、そいうことは素晴らしいと感動する、そこに力がある、命があると思うからである。座右の銘(ざゆうのめい)にしていつも口ずさむ。こうありたいと願うが、実際はそうたやすいことではない。だからこそ、そば(座右)に置いて自らを戒めているのである。

 3節 01:03その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
 ここには神に従う、正しい人(的外れでない人)は皆栄えると言っています。聖書の言葉が心に宿り、無意識のうちにも、その人の考え方、言葉、行い、に影響を与えるなら、まさにブドウの木に枝が繋がって、その栄養、愛、恵み、力を頂いて、実をならせることが出来るのではないだろうか。
 神を信じる、キリストを信じることは何物にもかえがたい幸いです。
 そしてその幸いは主の教えを愛し、その教えを口ずさむ人には必ず与えられるのです。

 幸いな生活を送るために
 神に逆らう者、罪ある者、傲慢な者、神に対して正しく生きようとしない者は真実(まこと)の的である神からそれた生き方をする人です。真実(まこと)の的である神以外のものに向かって生きるところに不幸がある。その的外れな道に、歩まずとどまらず、座らず、これは以外にも消極的な教えです。
 しかし、これは最も大切な教えです。私たちはまず、何よりも第一に神に逆らう者、罪ある者、傲慢なものを避けなければなりません。その人たちに近寄っていくことも、もし近寄ってきたなら逃げ出さなくてはなりません。極端な例ですが、麻薬や不倫、様々な情欲においてもそうです。そのような罪の誘惑があるところは避ける。近寄らない、固く拒絶する。私たちは真に弱いものです。これくらいなら、ちょっとだけと思うところに大きな落とし穴があるのです。 私たちは弱い、直ぐに負けて引きずり込まれてしまう。避けなければならない、逃げなければならない。
 神の前に正しく生きよう、神に向かって生きようとするものは消極的であるだけではなく、積極的でなくてはなりません。その人は主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ。これが正しい人の第一の資格、条件です。神の教えを疎かにして何が信仰ですか。クリスチャンとは名ばかりになってはいけません。
 御言葉を覚えて、蓄えておかねばなりません。武器を持つことです。勿論、神の言葉を覚えていても、十分理解していない、使いこなせない、実行できないものたくさんあります。しかし、それにもかかわらず、主の教えを愛し、昼も夜もそれを思い、慕い、そうなろうと祈る者は、その過程がすでに的に向かっているのです。それが正しい、幸いな人の生き方をしていることなのです。


詩編1編
01:01いかに幸いなことか神に逆らう者の計らいに従って歩まず罪ある者の道にとどまらず傲慢な者と共に座らず
01:02主の教えを愛しその教えを昼も夜も口ずさむ人。
01:03その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
01:04神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
01:05神に逆らう者は裁きに堪えず罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
01:06神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。