「天国への道」 ヨハネによる福音書14章1〜7節

 心を騒がせる最大のものは何か。
@ 自分の命があとわずかだ、と宣言されたとき。
A 愛する者の命があとわずかしかないと分かるとき。
 このことか何故、それほど心を騒がせるのか。死後、何処へ行くか分からない恐れがあるからか。
 特に、愛する者の死は心を騒がせるものだ。二度と会うことが出来ない、永遠の別離だと思うからか。

 人生をかけてきた者が、もうすぐいなくなってしまうと聞かされて、心を騒がせない者がいるかろうか。私たちは愛する者を失うことほど辛く、悲しいことはない。
 私たちにとって愛するということは、いつかは必ずやって来る別離の時の深い悲しみをはらんでいる。そのような悲しみを味わいたくないので、適当に愛しておこう、というわけにはいかない。愛すると言うことは愛の対象と一体となっていくことである。

 イエス・キリストを信じる、愛するということは、キリストと一体になっていくことを意味します。ブドウの木に枝が繋がって、木と枝が一つになるように、切っても切れない関係になる。何もそこまで信じなくても、適当に信じていけばいいのではないか。何でも行きすぎはよくないと、言われれる。しかし、キリストの愛を知れば知るほど、彼への信仰は大きく、愛は深くなっていく。
 「何時までも残るものは、信仰と希望と愛である。その中で最も大いなるものは愛である。」

 ヨハネによる福音書13章から17章までの5章は、イエス様が十字架にかかる前日の過ぎ越の祭の食事の席でのことが書かれている。これらは最期の晩餐でイエス様が弟子たちに語られた「遺言」のような言葉である。
 弟子たちは愛するイエス様との別離を永遠と感じ取って、心を騒がせていたのであろう。その弟子たちに、イエス様はこう言われた。

14:01「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。 14:02わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。 14:03行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。
 ここに人類で初めて、死の別離を越える道、天国への道が明らかに示された。死んだ後どうなるのか、何処へ行くのか、行き先が分からないことの不安や恐怖が、私たちの心を騒がし最大の原因ではないだろうか。
 イエス様はハッキリと父の家、天国があり、そこに行くのだ、と言われた。人々を天国へ連れて行くために自分は来たのであるとも宣言されている。
 つまり、十字架への道は、人々の罪の赦し、贖いの道であり、天国への道(救いの道)を作るためであった。父の家(=天国)には住む所はたくさんある。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書3章16節)

 神は天地万物を造り、世にいる全ての者を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである、とはイエス・キリストを信じる者は一人も滅びないで、とこしえの命に生きる、ブドウの木に枝が繋がるような者である。キリストを信じ、キリストに繋がっていることは、天国を約束されていることである。いや、信仰によって、この世にあっても天国への道を歩み、天国の恵みに生かされるのである。
 天国の条件はただ一つ、イエス・キリストを信じることだけです。つまり、罪多き者が、イエス様の十字架で、罪が赦されて神の子とされ、天国に相応しい者とされることです。
 
 ※文法と文脈
{新共同訳}もし(弟子たちの住む所が)なければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろう
  ここは、反語のように、言ったであろうか、イヤ言わなかっただろう、「そんなことはいわなかったでしょう。実際住む所はたく  さんあるのだから。」ととるより、
 {口語訳}もし無かったならば、わたしはそういっておいたであろう。
 〜か。がない。このほうが前後の文からするとスムーズに繋がる。
 弟子たちの場所  マルコ 10:35ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」 10:36イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、 10:37二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」 10:38イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」 10:39彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。 10:40しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」 ・・・・・・
マタイ20:20そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。 20:21イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」 20:22イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、 20:23イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」
ルカ22:30あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。


14:04わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」 14:05トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」
 イエス様は御自分が何処に向かっていこうとしているのか、弟子たちに繰り返し話してきた。それは十字架と復活への道、天国への道であった。しかし、弟子たちはこの時に及んでも分からなかった。
 私たちも分からないことは一杯あります。分からないことは、恥ずかしいことではない。分からないことはトマスのように聞きましょう。

14:06イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。 14:07あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」
 昔から天国を富士山の頂上に見立てて、そこに行くのに色々な登り口があるように、天国にいくのにも色々な道がある、だから、一つの宗教や思想に凝り固まって自分だけが正しいなどと言ってはいけない、と言う。そもそも天国と富士山を同じにしている所に間違いがある。
 富士山なら人間の力、努力で行ける。天国は人間の力や努力では決して行くことの出来ない全く次元の異なるところです。
 あれもこれも真理というのではない。真理は一つ。そして、天国への道も一つである。キリストの十字架で流された血による罪の赦し、きよめと、復活による永遠の命に生かされる道、これが天国への道、父のもとに行く唯一の道である。

 イエス・キリストは十字架の死と復活によって、天国への道を全ての人に開いて下さいました。それはだれでもキリストを信じる信仰によって、恵みによって天国へと入れて頂けるのです。これによって初めて、死による別離の悲しみと、死後、何処に行くか分からない恐怖から解放されるんです。