「ラザロの復活とイエスの十字架」 ヨハネによる福音書11章17〜44節
    (命には命を)
 今から40年前、私が大阪聖書学院(OBS)の学生だったとき、種まき会で学生達がラザロの復活劇をした。その時ラザロ役をしたのが、松岡優子という二十歳そこそこのうら若き女子学生でした。ラザロのセリフは一言もありません。菅野ホールの舞台の下にある洗礼槽その中で、トイレットペーパーで全身をぐるぐる巻きにされて、じっと横たわって、声がかかるのを待つだけでした。どれくらい待ったでしょうか、イエス様役の男子学生が「ラザロよ、出てきなさい」と声を掛けました。彼女はスッと起き上がり、まるでミイラはが墓から出てくるように洗礼槽から出てきました。その様相を見て、観客は一瞬、あっけにとられ、やがてあちこちからどよめきが聞こえました。
 学生の素人芝居でさえそうですから、実際にその場に居合わせた人々のショックは想像に難くありません。
 もし現代においても墓から死人があっちでも、こっちでも生き返ったとしたらどうでしょうか。ゾンビが、エクソシストの世界です。恐怖に陥れられ、パニックが起こるでしょう。神さまはそんな無秩序なことはされません。復活すると言うことは将来のことではなく、現に、今も御自分が死をも支配し、蘇らせる事が出来る者であることをショック療法的に証明されたしるしでした。

 ヨハネ福音書だけがラザロの復活の出来事を記している。しかも、11,12章をさいている。それだけヨハネが伝えたいことがここに込められていると言える。それは、命というものは、命によってしか代替することのできないものである、ということである。
6:51「私は天から降ってきた命のパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」
イエス様は御自分の命、死によっても失われることのない生きたパン、命を与えるためにこの世に来られた。
 この福音書が書かれた目的:ヨハネ20:31「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、又、信じてイエスの名により命を受けるためである。
 イエス様はマルタとマリアから兄弟ラザロが病気であるとの知らせを受けた。イエス様は彼等をとても愛していた。愛する者の為なら飛んでいきたいところであったが、そこになお二日滞在された。それは天の父のお心に従ったからです。イエス様はラザロが重い病気で死にそうだとの連絡を受けた時、すぐに父に祈ったことでしょう。
 父の答え「二日待て、それから出かけよ。そうすればラザロが死んで4日目になる。その時には誰もがラザロは復活するなど不可能だと思うだろう。しかし、わたしはラザロを復活させる。あなたはラザロの死を引き受け、ラザロはあなたの命を受けることになる。そうすることであなたが神に遣わされたメシアであることを周りの人々に知らせよう。それが私の栄光のためであり、ひいてはあなたもそれによって栄光を受けることになる。それでいいか。」「はい、その為に私はこの世に来ました。」
 こういう問答が父との間にあったのではないかと思う。
イエス様は天の父のお心を受けて、「人々にはこう言われた。
11:4「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」
 ここでイエス様が言われた一時的な根本的な意味は、私の朽ちる命、死と引き替えに、イエス様が自らの命を差し出して、十字架に架かり、命の交換をして下さったことへの気づきと深い感謝にいたるということ。つまり、私の朽ちる命、死はイエス様のものに、イエス様の永遠の命は私ものもになった。これを心から喜び、感謝すること。更に、このイエス様の命を頂いた者が、その喜びと感謝をもって他者のためにその命を使うことに至ることである。この病気はそこにまで至るということです。それが神の栄光のためである。神の子が栄光を受けるということである。

 ●マルタ24節終わりの日の復活の時に復活することは存じております。」
 ヨハネ5:28.29、6:39.40、ダニエル書12:2・・・世の終わり、最後の審判の時、キリスト再臨の時。
 しかし、イエス様がここで言われた復活は、死んだ後、遠い将来の「終わりの日」の復活ではなく。現に今、復活する、生き返る、ことを言われた。今、ここに復活そのものが来ている、私が復活であり、命そのものである、と。

ヨハネ:05:28驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、 05:29善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。
ヨハネ06:39わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。 06:40わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」
ダニエル書12:02多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入りある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。 12:03目覚めた人々は大空の光のように輝き
多くの者の救いとなった人々は
とこしえに星と輝く。 12:04ダニエルよ、終わりの時が来るまで、お前はこれらのことを秘め、この書を封じておきなさい。多くの者が動揺するであろう。そして、知識は増す。」 12:05わたしダニエルは、なお眺め続けていると、見よ、更に二人の人が、川の両岸に一人ずつ立っているのが見えた。 12:06その一人が、川の流れの上に立つ、あの麻の衣を着た人に向かって、「これらの驚くべきことはいつまで続くのでしょうか」と尋ねた。 12:07すると、川の流れの上に立つ、あの麻の衣を着た人が、左右の手を天に差し伸べ、永遠に生きるお方によってこう誓うのが聞こえた。「一時期、二時期、そして半時期たって、聖なる民の力が全く打ち砕かれると、これらの事はすべて成就する。」 12:08こう聞いてもわたしには理解できなかったので、尋ねた。「主よ、これらのことの終わりはどうなるのでしょうか。」 12:09彼は答えた。「ダニエルよ、もう行きなさい。終わりの時までこれらの事は秘められ、封じられている。 12:10多くの者は清められ、白くされ、練られる。逆らう者はなお逆らう。逆らう者はだれも悟らないが、目覚めた人々は悟る。 12:11日ごとの供え物が廃止され、憎むべき荒廃をもたらすものが立てられてから、千二百九十日が定められている。 12:12待ち望んで千三百三十五日に至る者は、まことに幸いである。 12:13終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう。」


●マルタ27節「はい。主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであることは私は信じております。」
 
これはマルタの信仰告白です。あのペトロに先だって「あなたこそ生ける神の子キリストです」との同じ立派な信仰告白です。

11:33イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して・・・・・。」
 「憤りを覚え」とは「馬が興奮して鼻を鳴らす」時に使われる言葉。
愛する者をこれほどまで悲しませる死に対して、憤られた(義憤)。いよいよ自分の命と引き替えに、ラザロの死を受ける時が来たことに対して、興奮を思えた(武者震い)

●11:35イエスは涙を流された
 恐らく、イエス様は様々な家族の辛い思いを御自分のこととして悲しまれ、涙されたのでしょう。

11:43こう言ってから、「ラザロ、出てきなさい」と大声で呼ばれた。
 ラザロが死よりよみがえったことで、それを目の当たりに目撃した群衆の多くはイエスを信じた。神を褒め称えた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受ける」というのは、この事を言っているのだろうか。

 いや、まだその先があった。
 大祭司カヤファは50節「一人の人間が民の代わりに死ぬことによって、国民全体が滅びないですむ方があなた方に好都合だとは考えないのか。」

11:53この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ
 今も世界中で、ラザロの復活は起こっている。イエス様によって、死より復活し、新しい命に生かされてる人が起こされている。それはイエス様を信じる信仰によって、聖霊を与えられて、死を超える命、永遠の命に生きるをということだ。それがイエス様がこの世に来られた真の意義だということ。」である。それに気づき、深く感謝することが神が喜ばれることであり、神の栄光を表すことである。

 「命には命をもって。自分の命を捨てる覚悟で臨む。友のために命を捨てることほど大きな愛はない。私達はそのような大きな愛を、命をイエス様から頂いたのですから、まず、そのことを忘れないで、感謝すること、そしてこの命を受けた者は、その命を他者のために、誠心誠意心を込めて使うこと。命には命をもって臨むことが神のお心にかなうことであり、神の栄光を現すことである。」