「御言葉の力」 イザヤ書 55章6〜11節

 イザヤ書は書かれた時代からいって、イザヤ一人の言葉ではなく、三人の預言者によって語られた言葉だ、というのが今は定説になっています。しかし、その区分は明確なものではありませんが、その節に従って分けてみますと、以下の通りになりますj。

@イザヤ    (BC742〜701)   1〜39節・・南王国ユダの民へ    アッシリア帝国
A第二イザヤ (BC587〜538頃) 40〜55章・・バビロン捕囚の地で   バビロニア帝国
B第三イザヤ (BC538〜)     56〜66章・・帰還後のユダに     ペルシャ帝国

 今日の聖書の言葉は、A紀元前六世紀のバビロン捕囚時代(BC587〜538)の無名の預言者の言葉と言われています。この時は旧約時代のイスラエル民族にとって、最も暗黒の時代でした。この預言者は遠くバビロンの地に、捕虜として連れて行かれたイスラエルの民に向かって、神の言葉を語りかけたのです。多くの学者は、この預言者を第二イザヤ(仮名)と呼んでいます。彼の預言の言葉はイザヤ書40〜55章に収められています。これが彼より約150年前に生きていた預言者イザヤ(1〜39章)の書物に結びつけられていたからです。

 イザヤはユダの預言者としてBC742〜701年の間、ユダの4人の王(ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ)と、民に向かって神の言葉を語った。その時の世界の支配者はアッシリア帝国jでした。それから約150年後、世界はアッシリア帝国からバビロニア帝国の支配に代わり、イスラエル民族はバビロニア帝国によってBC587年に滅ぼされ、多くの若者が奴隷として遠い異境の地バビロンに連れて行かれた。(バビロン捕囚)
 彼らは初めのうちは、すぐにでも故郷に帰り、自由を回復することが出来るのではないかと望みをつないでいた。しかし、それから年月が過ぎ、30年、40年と経ちました。相変わらず苦しい奴隷の生活が続きました。
 そんな中で第二イザヤは預言者として神の「解放のに言葉」を語ったのです。「あなたがたは見捨てられていない。もうすぐ自由になる時が来る、主に求めよ」、とかたったのです。6節「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。」
 しかし、誰も聞きませんでした。そればかりか、この預言者第二イザヤは、当時、苦しみを共にする仲間達からひどい嘲笑を受け、中傷されました。「主を求めよ、だと、一体どこに求めよと言うのだ?主などに求めても、主を呼んでも、何も応えてくれなかった、何もしてくれなかったではないか。そんな根拠のないことを、誰が信じる者か。」
 しかし、主はこの時、長い沈黙を破り、この預言者を通して再び「招きの手」を伸べた時だったのです。「偉大な解放の出来事」への招きでした。けれども、長い捕囚生活の中では誰も解放の時が来ることなど信じられなかった。

 この預言者がこの御言葉を語ってどれくだい経ったときだったでしょうか。突如としてバビロニアは倒れ、世界はペルシャ帝国の時代となり、キュロス王によって538年に奴隷解放令が出た。その時、奴隷として連れて行かれてから約50年の歳月が経っていました。その間、イスラエルの民は異国の地で塗炭の苦しみをなめたのです。しかし、第二イザヤが語った通りに神の御言葉は成就し、空しく返ることはなかったのです。

55:06「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。」

 皆さんのおかれている状況はそれぞれ違うでしょう。また、教会生活の年数もまちまちでしょう。私たちは6節の、この言葉を聞いて、どう受け止めるでしょうかこの言葉はイスラエルの人々に語られた言葉ですが私たちに向けて語られた言葉でもあるのです。
 この御言葉は逆から言えば、こうこうも受け取れます。
主を見いだし得ないときがある。その時は主を尋ね求めよとは言わない。また、近くに居ないときが来る。その時は呼び求めよとは言わない。しかし、今はそうではない。だから求めよ、と。
 そうです。何も見出し得ない、変わらないところでは、私達は尋ね求めることをしない。答えが与えられないのであれば、問うことも無益である。家に住んでいる者がなければ、扉を叩いても空しい。

 何故、神は聞いて下さらないのか、私の祈りなんか聞いて下さらないのではないか、とさえ思ってしまうことがある。そのようなことが繰り返されると、信仰がなえ、諦めの境地になってしまう。
 そんな私たちに対してイエス様は「悪裁判官に必死に求めるやもめ」のたとえ話をされ、こう言われる。「気を落とさず、耐えず祈りなさい。「まして神は昼夜呼び求める人達のために裁きを行わず、彼らをいつmでも放っておくことはない。」(ルカ8:1〜)
 神はいないのではなく、ちゃんと聞いておられる。最善の時にそれをかなえて下さる。だから、気を落とさず祈りなさいと励まして下さるのです。
イザヤ49:08「主はこう言われる。わたしは恵みの時にあなたに答え/救いの日にあなたを助けた。」パウロもこの言葉を引用してこう述べている
「今や恵みの時、今こそ救いの日。」と。(コリント二6;2)
 今は恵みの時、救いの日、主を見出しうるときである。

 次ぎに8.9節
55:08わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。
55:09天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。

 「神の思いは私達の思いとは違う。」ではどう違うのか。
「天が地を高く超えているよう、私の道は、思いは、あなた達の道、思いを高く超えている。」
 そうです、私達の思いは地の思いです。自分のこと、目先のことです。次元が低いと言えば低いものでしかない。
 「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。」癌を患ってから、この御言葉を思い巡らせてきた。神はどのような形で栄光を現されるのかを期待した。これか、あれか、色々と思い巡らせた。そうこう考えてる内に、退院して早7ヶ月半が過ぎた。次第に、何が神の栄光なのかということさえ思い巡らせることが少なくなった。
 神の思いは私達の思いを遙かに超えている。忘れた頃に、あるいは召される時に初めて、神の栄光の栄光のためである、が分かるのかもしれない。

55:10雨も雪も、ひとたび天から降ればむなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ種蒔く人には種を与え食べる人には糧を与える。
55:11そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げわたしが与えた使命を必ず果たす。
 今は恵みの時、救いの日。主を尋ね求めよ、呼び求めよ、と言って下さる。日々御言葉に触れ、その成就、現実を見させてい頂こうではありませんか。



「イザヤ書55章6〜11節」
55:06「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。
55:07神に逆らう者はその道を離れ悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば豊かに赦してくださる。
55:08わたしの思いは、あなたたちの思いと異なりわたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。
55:09天が地を高く超えているようにわたしの道は、あなたたちの道をわたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。
55:10雨も雪も、ひとたび天から降ればむなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ種蒔く人には種を与え食べる人には糧を与える。
55:11そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げわたしが与えた使命を必ず果たす。